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親鸞
しんらん |
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作品ID | 33224 |
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著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「親鸞(一)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1990(平成2)年8月11日 「親鸞(三)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1990(平成2)年9月11日 |
初出 | 「名古屋新聞」1934(昭和9)年9月28日~1935(昭和10)年8月9日、1936(昭和11)年1月19日~8月<br>「台湾日日新報 夕刊」1934(昭和9)年9月30日~1935(昭和10)年8月12日、1936(昭和11)年1月7日~8月4日<br>「京城日報」1934(昭和9)年9月~1935(昭和10)年8月、1936(昭和11)年1月10日~8月<br>「神戸新聞」1936(昭和11)年1月5日~8月6日<br>「福日新聞」「北海タイムス」1935(昭和10)年9月~1936(昭和11)年8月 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | トレンドイースト |
公開 / 更新 | 2021-08-11 / 2021-07-27 |
長さの目安 | 約 1159 ページ(500字/頁で計算) |
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序
歎異鈔旅にもち来て虫の声――
わたくしの旧い拙い句である。こんな月並に耽っていた青年ごろから、自分の思索にはおぼろげながら親鸞がすでにあった。親鸞の教義を味解してというよりも――親鸞自身が告白している死ぬまで愚痴鈍根のたちきれない人間として彼が――直ちに好きだったのである。
とかくわたくし達には正直に人へも対世間的にも見せきれない自己の愚悪や凡痴を、親鸞はいとも自然に「それはお互いさまですよ、この親鸞だって」と何のかざりもなくやすやすといってくれているので、あのひとですらそうだったかとおもい、以後どれほど、自分という厄介者に、また人生という複雑なものにも、気がらくになったことかしれない。
もっともそのころ一時文壇にも親鸞が思潮の大きな対象となり、若い文学心と若き親鸞の求道心とが、幾世紀もおいた後世で生々とふれあい、現実の社会を鐘とし親鸞を撞木として、どんなひびきを近代人のこころに生むか? ――をしきりに書かれたり演劇化されたりしたことがある。大正十年前後のことだ。あきらかに私なども、その文芸梵鐘にひきつけられていたものに違いなく、有名な遺文の中の――「善人なおもて往生をとぐ、いかにいわんや悪人をや。」とか「親鸞は父母の孝養のためとて、念仏一返にてももうしたることいまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。」とか、また「親鸞は弟子ひとりももたずそうろう。」などという語は、わたくし達には、七世紀も前の古人の言というような気はしない。むしろ最も官能の正しくひろく澄みきった近代人の声として常に新しい反省と若い思索をよび起されるのである。
そして親鸞の生涯したそのころの時代苦をおもい、今もかわらない人間の相をかえりみると、自ら下根の凡夫といい愚禿と称した彼の安心の住みかは、求めればいまでもたれの目の前にもあるのだという事実を観ずにいられないのだった。けれどわたくしの場合はそれも信仰のかたちでなく憧憬の中にいつも育っていた。親鸞といえばすぐ青年時代の文芸梵鐘が同時にひびいてくるせいかもしれない。事実また親鸞ほど詩人的な肌あいをもった宗教人も世界に稀れであろう。
わたくしの作家生活と親鸞とは忘れ得ないものがある。いまおもえば恥かしい限りだが、私が初めて小説というものを書いた最初の一作が親鸞だったのである。当時わたくしはT新聞社の駈け出しの学芸部記者だった。三上於菟吉氏去り尾崎士郎氏退社し、そのあとへ入ったばかりで編輯の仕事すらろくにのみこめていなかった。その私へどうしたことか連載小説として親鸞伝を書けという社命なのである。いいつけた社も社であるがひきうけた私も私だ。知らないということほど気のつよいものはない。私は毎朝、他の同僚たちより二時間も早く出勤し、社用のザラ紙へ鉛筆書きで毎日の掲載分をその日その日書いた。下版…