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侘助椿
わびすけつばき |
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作品ID | 3386 |
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著者 | 薄田 泣菫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「泣菫随筆」 冨山房百科文庫、冨山房 1993(平成5)年4月24日 |
入力者 | 本山智子 |
校正者 | 林幸雄 |
公開 / 更新 | 2001-07-06 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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一
私は今夕暮近い一室のなかにひとり坐ってゐる。
灰色の薄くらがりは、黒猫のやうに忍び脚でこつそりと室の片隅から片隅へと這ひ寄つてゐる。その陰影が壁に添うて揺曳くする床の間の柱に、煤ばんだ花籠がかかつてゐて、厚ぼつたい黒緑の葉のなかから、杯形の白い小ぶりな花が二つ三つ、微かな溜息をついてゐる。
侘助。侘助椿だ。―友人西川一草亭氏が、私が長い間身体の加減が悪く、この二、三年門外へは一歩も踏み出したことのない境涯を憐れんで、病間のなぐさめにもと、わざわざ届けてくれた花なのだ。
二
言ひ伝へによると、侘助椿は加藤肥後守が朝鮮から持ち帰つて、大阪城内に移し植ゑたものださうだ。肥後守は侘助椿のほかにも、肩の羽の真つ白な鵲や、虎の毛皮や、いろんな珍しい物をあちらから持ち帰つたやうに噂せられてゐる。現に京都清水の成就院では、石榴のそれのやうな紅い小さな花をもつた椿を「本侘」と名づけて、肥後守が朝鮮から持ち帰つたのは、自分の境内にある老樹だと言つてゐる。実際世間といふものはいい加減なもので、肥後守が腕つ節の人一倍すぐれて強かつた人だけに、荷嵩になりさうな物だつたり、由緒がはつきり判りかねる品だつたら、その渡来の時日がぴつたり註文に合はうが、合ふまいが、そんなことには一向頓着なく、何もかもこの強者の肩に背負はすつもりで、
「はて、こいつも肥後守ぢや」
「ほい、お次もさうぢや」
といつたふうに、みんな清正の荒くれだつた手がかかつてゐたことに決めてゐるらしい。
三
この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏の言ふところが最も当を得てゐる。それによると、利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ。
それはともかくも、侘助椿は実際その名のやうに侘びてゐる。同じ椿のなかでも、厚ぽつたい青葉を焼き焦がすやうに、火焔の花びらを高々と持ち上げないではゐられない獅子咲のそれに比べて、侘助はまた何といふつつましさだらう。黒緑の葉蔭から隠者のやうにその小ぶりな清浄身をちらと見せてゐるに過ぎない。そして冷酒のやうに冷えきつた春先の日の光に酔つて、小鳥のやうにかすかに唇を顫はしてゐる。侘助のもつ小形の杯では、波々と掬んだところで、それに盛られる日の雫はほんの僅かなものに過ぎなからうが、それでも侘助は心から酔ひ足つてゐる。
四
「この花には捨てがたい侘があるから。」
かういつて、同じ季節の草木のなかから侘助椿を選んで、草庵の茶の花とした茶人の感覚は、確かに人並すぐれて細かなところがあつた。壁と障子とに仕切られた四畳半の小さな室は、茶人がその簡素…