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![]() さいしゅうのごご |
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作品ID | 3417 |
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著者 | モルナール フェレンツ Ⓦ |
翻訳者 | 森 鴎外 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「諸国物語(上)」 ちくま文庫、筑摩書房 1991(平成3)年12月4日 |
入力者 | 土屋隆 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2008-01-24 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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市の中心を距ること遠き公園の人気少き道を男女逍遥す。
女。そこでこれ切りおしまいにいたしましょうね。まあ、お互に成行に任せた方が一番よろしゅうございますからね。つまりそうした時が来ましたのですわ。さあ、お別れにこの手にキスをなさいまし。これからはまたただのお友達でございますよ。
男。さよう。どうも思召通りにするより外ありません。
女。ともかくもお互の間に愉快な、わだかまりの無い記念だけは残っていると云うものでございますね。二人は惚れ合っていました。キスをしました。厭きました。そこでおさらばと云うわけでございますからね。
男。いかにもおっしゃる通りです。(女の手に接吻す。)
女。そこでわたくしはこの道を右に参りましょう。あなたは少しの間ここに立って待っていらっしゃって、それから左の方へおいでなさいまし。せっかくお別れをいたす日になって、宅にでも見附けられると、詰まりませんからね。
男。いかさま。そんならこれで。
(二人ともなお立ち止まりいる。)
女。なぜいらっしゃらないの。
男。実はお別れをする前に少し伺っておきたい事があるものですから。
女。そう。さあ、なんでもおっしゃいましよ。
男。あの始めてタトラでお目にかかった時ですね。あの時はお内の御主人がどんな方だか知らなかったのでございますね。あなたは婦人のお友達二三人とあっちへ避寒に来ていらっしゃったのです。
女。ええ。
男。それからですね。どんな風に事柄が運んで行ったと云うことはあなたもまだ覚えていらっしゃるでしょう。ブダペストへ参ってからも、わたくしはあなたと御交際を続けて行きました時も、まだ御主人がどんな方だか知らなかったのですね。
女。ええ。
男。そのころある日の事ですが、あなたはわたくしに写真を一枚お見せになりましたね。それがすばらしい好男子だったのです。あなたのおっしゃるには、「これが、わたくしの夫ですから、よく見ておおきなさい」と云うことでした。わたくしは仰せの通りよく拝見しました。その写真の男は Dorian Gray と云う青年はあんなだったかと思うほど美しくて、Edward 七世はあんなだったかと思うほど様子がよかたのです。髪は波を打っています。眉は秀でています。優しい目に男らしい権威がある。口はグレシアの神の像にでもありそうな恰好をしているのですね。わたくしはあの時なんとも言わずにいましたが、あの日には夕食が咽に通らなかったのです。
女。大方そうだろうと存じましたの。
男。実は夜寝ることも出来なかったのです。あのころはわたくしむやみにあなたを思っていたでしょう。そこで馬鹿らしいお話ですが、何度となく床から起きて、鏡の前へ自分の顔を見にいったのですね。わたくしも自分がかなり風采の好い男だとは思っていました。しかしまあ世間普通の好男子ですね。世間でおめかしをし…