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それらの国々でも
それらのくにぐにでも |
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作品ID | 3461 |
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副題 | 新しい国際性を求めて あたらしいこくさいせいをもとめて |
著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第十六巻」 新日本出版社 1980(昭和55)年6月20日 |
初出 | 「女性線」1948(昭和23)年7月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 磐余彦 |
公開 / 更新 | 2003-10-24 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 18 ページ(500字/頁で計算) |
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わたしたちの生活の間で、国際的という言葉はこれまでどんな工合に使われて来ているだろうか。
日常の言葉として、国際的という表現をあまりつかわない人たちでも、スポーツの場合はごくすらりと、世界記録というつかみかたで、国際的な水準なり、ある程度その感覚なりを身につけて来ている。
この節では国際結婚という言葉も日用語に近くなった。モードについて書かれている記事の中に、ロマネスクは目下モードにおける国際的傾向であると書かれているとき、むずかしい言葉でかいてあるわ、と批難する娘さんたちはいない。日本の娘のおどろくような順応性で、国際的モードといえば、世界中どこでもという意味を理解して、自分もそれにおくれまいと願う。
国際的という表現は、どんな素朴な心にでも、それは自分の国の内ばかりでなく、よその国々の内においても、という内容で理解されている。キュリー夫人は、その意味で国際的な科学者であったし、日本にも音楽や映画女優で国際的なひろがりをもつひとの出て来ていることは知られている。そして、このごろのように幾年ぶりかで国の内外の往来が恢復しはじめると、ユネスコの問題にしろ国際的だし、アメリカへの留学生の出発も国際的な一つのできごとだし、織姫渡米も国際的な現象の一つとなった。
それにつけても、わたしたち日本の婦人は、これまでどんな国際的な関係のなかにおかれ、どんな国際性を自分たちのものとして生きて来ただろうか。第一の特徴は、わたしたち日本の女性の生活が、十数年間、絶えずつよまる日本のファシズムとその権力が計画した戦争の下におかれて来たということである。
一九三一年の後半期、張作霖を爆死させて満州への侵略がはじまってから一九四五年八月十五日まで、日本の人民生活の物も心もぼろぼろになり果るまで、わたしたちは十四年間の戦争にさらされた。戦争は現代の資本主義の国々が互にもっている利害の矛盾や、その国の内にもっている社会機構の矛盾の総合的なあらわれである。だから、戦争という大惨事が発生すれば必ずその半面には、国際間の戦わざる面――平和の要素の強い発動がおこって来る。これは、人類の自然だと思う。どんな人でも、病気がおこればそれを癒し、且つ二度とそんな病気にかからないようにしようとするにきまっているのだから。
ヨーロッパの国々は、互に国境を地つづきの山や河、森の間にとなりあわせ、互の国語に共通な語源をもち、今日までの歴史のなかではヨーロッパのどの国もとなりの国におこる事件に対して、無関係ではあり得なかった。したがって、第一次大戦の前後も、このたびの第二次大戦のような大規模な殺戮と破壊の間でも、ヨーロッパの真面目な精神の人々の間には戦争の悲惨から人間性を守ろうとする熱心な行動がとられた。
一九一四年の時代にヨーロッパ各国の資本主義的な経済が、それ以上拡大するためには、これまでより…