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読書
どくしょ
作品ID3505
著者西田 幾多郎
文字遣い新字新仮名
底本 「続思索と体験『続思索と体験』以後」 岩波文庫、岩波書店
1980(昭和55)年10月16日
初出「改造 第二十巻第十一号」1938(昭和13)年11月
入力者土屋隆
校正者荒木恵一
公開 / 更新2014-03-31 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は或は人から沢山の書物を読むとでも思われているかも知れない。私はたしかに書物が好である。それは子供の時からの性僻であったように思う。極小さい頃、淋しくて恐いのだが、独りで土蔵の二階に上って、昔祖父が読んだという四箱か五箱ばかりの漢文の書物を見るのが好であった。無論それが分ろうはずはない。ただ大きな厳しい字の書物を披いて見て、その中に何だかえらいことが書いてあるように思われたのであった。それで私の読書というのは覗いて見るということかも知れない。そういう意味では、可なり多くの書物を覗いて見た、また今でも覗くといってよいかも知れない。本当に読んだという書物は極僅なものであろう。
 それでも若い時には感激を以て読んだ本もあった。二十少し過ぎの頃、はじめてショーペンハウエルを読んで非常に動かされた。面白い本だと思った。しかし年を経るに従い、そういう本はなくなった。ニル・アドミラリというような気分になってしまった。私には或人の書物を丹念に読み、その人の考を丹念に研究しようという考が薄い。
 しかし偉大な思想家の思想というものは、自分の考が進むに従って異なって現れて来る。そして新に教えられるのである。例えば、古代のプラトンとか近代のヘーゲルとかいう如き人々はそうと思う。私はヘーゲルをはじめて読んだのは二十頃であろう、しかし今日でもヘーゲルは私の座右にあるのである。はじめてアリストテレスの『形而上学』を読んだのは、三十過ぎの時であったかと思う。最初ボンス・ライブラリの訳と次に古いフィロゾフィッシュ・ビブリオテークのロルフェスの訳で読んだ。それはとても分らぬものであった。然るに五十近くになって、俄にアリストテレスが自分に生きて来たように思われ、アリストテレスから多大の影響を受けた。私は思う、書物を読むということは、自分の思想がそこまで行かねばならない。一脈相通ずるに至れば、暗夜に火を打つが如く、一時に全体が明となる。偉大な思想家の思想が自分のものとなる、そこにそれを理解したといい得るようである。私はしばしば若い人々にいうのであるが、偉大な思想家の書を読むには、その人の骨というようなものを掴まねばならない。そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならなければならない。偉大な思想家には必ず骨というようなものがある。大なる彫刻家に鑿の骨、大なる画家には筆の骨があると同様である。骨のないような思想家の書は読むに足らない。顔真卿の書を学ぶといっても、字を形を真似するのではない。極最近でも、私はライプニッツの中に含まれていた大切なものを理解していなかったように思う。何十年前に一度ライプニッツを受用し得たと思っていたにもかかわらず。
 例えば、アリストテレスならアリストテレスに、物の見方考え方というものがある。そして彼自身の刀の使い方というものがある。それを多少とも手に入れれば、そう…

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