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軍用鼠
ぐんようそ
作品ID3533
著者海野 十三
文字遣い新字新仮名
底本 「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」 三一書房
1989(平成元)年7月15日
初出「新青年」博文館、1937(昭和12)年4月
入力者tatsuki
校正者まや
公開 / 更新2005-05-02 / 2014-09-18
長さの目安約 38 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 探偵小説家の梅野十伍は、机の上に原稿用紙を展べて、意気甚だ銷沈していた。
 棚の時計を見ると、指針は二時十五分を指していた。それは午後の二時ではなくて、午前の二時であった。カーテンをかかげて外を見ると、ストーブの温か味で汗をかいた硝子戸を透して、まるで深海の底のように黒目も弁かぬ真暗闇が彼を閉じこめていることが分った。
 もう数時間すれば夜が明けるであろう。すると窓の外も明るくなって、電車がチンチン動きだすことであろう。するとその電車から、一人の詰襟姿の実直な少年が下りてきて、歩調を整えて門のなかへ入ってくるだろう。そして玄関脇の押し釦を少年の指先が押すと、奥の間のベルが喧しくジジーンと鳴るであろう。梅野十伍はそのベルの音を聞いた瞬間に必ずや心臓麻痺を起し、徹夜の机の上にぶったおれてあえなくなるに違いないと思っているのである。
 原稿紙の上には、ただの一行半句も認めてないのである。全くのブランクである。上の一枚の原稿用紙がそうであるばかりではなく、その下の一枚ももう一つ下の一枚も、いや家中の原稿用紙を探してみても只の一字だって書いてないのである。それだのに、朝になると、必ず詰襟の少年が、字の書いてある原稿紙を取りに来るのである。少年は梅野十伍の女房に恭々しく敬礼をして、きっとこんな風に云うに違いない。
「ええ、手前は探偵小説専門雑誌『新探偵』編集局の使いの者でございます。御約束のセンセイの原稿を頂きにまいりました、ハイ」
 ――それを考えると梅野十伍は自分の顔の前で曲馬団の飢えたるライオンにピンク色の裏のついた大きな口をカーッと開かれたような恐怖を感ずるのであった。実に戦慄すべきことではある。
 なぜ彼は、原稿用紙の桝目のなかに一字も半画も書けないのであるか。そして毒瓦斯の試験台に採用された囚人のように、意気甚だ銷沈しているのであるか。
 これには無論ワケがあった。ワケなくして物事というものは結果が有り得ない。
 実はこのごろ梅野十伍にとって何が恐ろしいといって、探偵小説を書くほど恐ろしいことはないのであった。今月彼が一つの探偵小説を発表すれば、この翌月にはその小説が、すくなくとも十ヶ所の批評台の上にのぼらされ、そこでそれぞれ執行人の思い思いの趣味によって、虐殺されなければならなかった。
 もしこれが人間虐殺の場合だったら、もっと楽な筈だった。なぜなら人間の生命は一つであるから、一遍刺し殺されればそれで終局であって、その後二度も三度も重ねて殺され直さぬでもよい。ところが、小説虐殺の場合は十遍でも二十遍でも引立てられていっては念入の虐殺をうけるのであるから、たまったものではない、尤もいくたび殺されても執念深く生き換わるのであるから、執行人の方でも業を煮やすのであろうが。
 執行人の多くは、いろいろな色彩に分れているにしてもいずれも探偵小説至上論者であって、新…

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