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菊 食物としての
きく しょくもつとしての |
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作品ID | 3538 |
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著者 | 幸田 露伴 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「花の名随筆10 十月の花」 作品社 1999(平成11)年9月10日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | LM3 |
公開 / 更新 | 2001-12-26 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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菊の季節になつた。其のすが/\しい花の香や、しをらしい花の姿、枝ぶり、葉の色、いづれか人の心持ちを美しい世界に誘はぬものはない。然し取訳菊つくりの菊には俗趣の厭ふべき匂が有ることもある。特に此頃流行の何玉何々玉といふ類、まるで薬玉かなんぞのやうなのは、欧羅巴から出戻りの種で、余り好い感じがしないが、何でも新しいもの好きの人々の中には八九年来此のダリヤ臭い菊がもて囃される。濃艶だからであらう。けれども美しい方へかけては最も進歩した二色もの、花弁の表裏が色を異にする蜀紅などの古いものからしてが、そも/\菊の有つ本性の美とは少し異つた方面へ発達したもののやうに思へる。これも老人の感情か知らぬ。陶淵明は菊を愛したので知れた古い人だが、淵明の愛した菊は何様な菊だつたか不明である。云伝へでは後の大笑菊といふのであるとされてゐるが、それならばむしろ其花はさして立派でもない小さな菊である。あの風流の人が営々として花作の爺さんのやうに齷齪したらうとも思はれないから、自然づくり、お手数かけずのヒョロケ菊かモジャモジャ菊かバサケ菊で、それのおのづからに破れ籬かなんかに倚りかゝり咲きに星光日精の美をあらはしたのを賞美したことだらうと想はれて、宋の詩人の笵石湖のやうに園芸美の満足を求めた菊つくりではなかつたらうと想はれるが、これは果たして当つていゐるか何様か知れない。
菊をたべるといふことになると聊か野蛮で小愧かしいやうな気もせぬではないが、お前死んでも寺へはやらぬ焼いて粉にして酒で飲むといふ戯れ唄の調子とも違ひはするが、愛のはてが萎れ姿を眼にするよりも一寸のわざくれに摘んで取つて其清香秀色を口にするのもさして咎めるにも及ぶまい。既に楚辞にも、秋菊の落英を餐ふ、とある位だ。ところが、此の落英の落の字が厄介で、菊ははら/\と落ちるものではないから、落は先日某君から質問された「チヌル」の事に関係のある落成の落の字と見なして、落英は即ち咲いた花だといふ説もあるが、何だかおちつきの悪い解ではある。菊の花の落ちる落ちぬについては、後に王安石と蘇東坡との間に軽い争があつた談などもあるが、話の横道入りを避けて今は抛って置く。さて、たべる菊は普通は黄の千葉又は万葉の小菊で、料理菊と云つて市場にも出て来るのであるが、それは下物のツマにしか用ゐられぬ、あまり褒めたものではない。稀に三杯酢、二杯酢などの[#挿絵]物として、小皿、小猪口に単用されることもあるが、それにしても話題になるほどではない。たゞし菊には元来甘いと苦いとの二種あること瓢の如くであつて、又恰も瓢の形の良いのには苦性のものが多くて、酒を入れると古くなつてゐても少し苦味を帯びさせるが如く、菊も兎角花の大にして肉厚く色好いものには苦いのが多い。といつて甘い菊にも類が多いから、普通料理菊の如くに平々凡々の何の奇無きもののみではない。秋田の佐々…