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些細なやうで重大な事
ささいなようでじゅうだいなこと
作品ID3611
著者幸田 露伴
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻76 常識」 作品社
1997(平成9)年6月25日
入力者渡邉つよし
校正者門田裕志
公開 / 更新2001-09-28 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 人間には色々の仕草があるがつゞめて言へば、事に処すると、物に接するとの二ツになる、事に処すると云ふは、其処に生じて来た或る事情に対して、如何云ふ様に自分の態度を執るか、了見を定めるか、口を利くか、身体を動かすか、智慧を回らすか、力を用ふるかといふ事である。
 事に処するは、非常に多端である。何となれば、其処に生ずる事情は、際限なく種々様々な形を以て現はれて来るから、之に対する道も決して一通りや二通りでない訳で、大体は道理の正しきに従ひ、人情の美しきに従ふべきではあるが、さりとて一様に言ひ切れぬ。或時は手強く、或時は誠実一方で、亦或時は便宜に従ふを宜しいとする場合もある。
 そこで、今それは暫くとして、物に接するといふ方を申さうならば、一体この物といふのは事と違つて死物である。事の方は事情であるから、千差万別が限りなく、変化百端動いて止まざるものであるが、物の方は、これも万物と云つて際限なく数多いものであるが、はるかに静的である。
 例えば、此処に茶碗がある、茶卓がある、土瓶がある、鉄瓶があるといふ如く、此等の物も実に測り知られざる数であるが、兎に角我心以外の物であつて、所謂物質といふ言葉で尽されるもので、その一箇一箇は固定してゐる。勿論、物質そのものも変化せぬではない。水が湯となり氷となるが、人生の事情の多端錯雑、変幻極まりなきに比べてはるかに簡単であり、したがつて物に接するは、事に処するよりも単純であるが、それでも本当に物に接するといふことに徹底するには、大分の知慮分別と、鍛練修業を必要とする。
 然し、物に接する事がよく出来ぬ位では、世に立ち人事百般に処するは、なほ能く出来ぬ訳であるから、我々は先づ物に接する処から鍛練修業を積んで行かねばならぬ。然るに多くの人は、相手の物そのものが口も利かなければ抵抗もせぬものであるまゝに、勝手にこれに接して、自ら非なりとせぬのが常である。これは詰らぬ事である。小学中学程度の物がよく出来ぬのにそれより高等の事がよく出来よう訳はない。物に接することさへも出来ないのに、巧に事に処さんとするは、イロハも知らんで難しい字を書かんとするが如きものである。
 例へば、我が帽子、我が衣服の如きは我物であるから、如何扱つてもよいやうなものであるが、これを正当に扱ふには、やはり心の持ち方の良否があつて、其処に違つた結果を生じる。例へば帽子を冠るにもリボンの結目を左にして冠るべきか右にして冠るべきか、その何方かゞ正しければ、何方かゞ間違つてゐる。それを何方でも関はぬとすれば、それは物に接する道を失つた訳である。袴をはき付けぬ人が、袴をはいて袴腰を前にしたといふ笑話がある、袴の事は誰でも心得てゐて、誰でも当を得た接し方をするものであるが、さてその他の物に接すると、仲々さうは不可ぬもので、どうも帽子を逆さに冠つたり、袴を逆にはいたりするやうな…

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