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鏡心灯語 抄
きょうしんとうご しょう |
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作品ID | 3632 |
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著者 | 与謝野 晶子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「与謝野晶子評論集」 岩波文庫、岩波書店 1985(昭和60)年8月16日 |
入力者 | Nana ohbe |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2005-02-16 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 23 ページ(500字/頁で計算) |
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私は平生他人の議論を読むことの好きな代りに自ら議論することを好まない。議論にはかなり固定した習性がある。即ち議論には論理を一般人の目に見えるように操縦せねばならぬ。また議論の質を表現するのが目的であるにかかわらず、量的にくどくどと細箇条を説明せねばならぬ。それが私に不得手な事であるのみならず、私自身の表現としては煩と迂とに堪えない。それからまた網を作るに忙しくて肝腎の魚を忘れるような場合さえある。むしろ世間の議論の大部分はこの最後の物に属している。私はそれが厭わしい。私はロダン先生の議論――先生においては家常の談話――が常に簡素化され結晶化された無韻詩の体であるのを、私の性癖から敬慕している。私の茲に書く物も私の端的な直観を順序に頓着しないで記述する外はない。
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私の過去十二、三年間の生活は、じっとしていられずに内から外へ踊って出るような生活であった。私は久しく眩しい叙情詩的の気分に浮き立っていた。しかし今は反対に外から内へ還って自分の堅実な立場を踏みしめながら、周囲を自分の上に引き附けて制御したいと思うような生活が開けて来た。以前は内から蒸発する熱情と甘味とを持て余し、自分一人ではいたたまらずに誰にでも凭れ掛りたいような気持でいたのに、今は静かな独自の冥想に無限の愛と哀愁と力とを覚えて、外界の酷薄な圧迫を細々ながらこの全身の支柱に堪えて行こう、更にまた出来ることなら外界を少しでも自分の手の下で鍛え直して見たいというような気持になっている。
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上の空でなくて、真剣に、実際に、そして溌剌として生活しようとする時、人は皆倫理的になる。倫理は人生の律である。実際の行進曲である。人生の楽譜や図解であってはならない。学問や教育を職業とする人々の口にする倫理が我々の実際生活に何の用をもなさないのは当然である。命と肉と熱とを備えた倫理は我々の生活その物であるから。
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生活は季節を択ばずに発芽と開花と結実とを続けて行く。新しいことは真の生活の相である。既に生活が不断に移って行く以上、私たちの倫理観もまた不断に移らねばならない。永久の真理というものを求めることの愚は琴柱に膠するにひとしい。永久の真理というような幽霊に信頼して一方のみを凝視している人が、刻々に推移する人生に対して理解もなく判断も出来ず、自分が人生の本流に乗ることを忘れ時代の競走に落伍していながら、かえって反感と否定とを以て世の澆季を罵ったりもするのである。
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永久の真理のないと共に万人に共通する真理もないと私は想う。時間と空間を通じて固定した真理を求めることが実際の人生と相容れぬという不都合のあることに気が附かなかったために、過去の世界が煩悶と懐疑と沮喪とに満たされ、在来の哲学と宗教と道徳とが現代に権威…