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晋室の南渡と南方の開発
しんしつのなんととなんぽうのかいはつ
作品ID3665
著者桑原 隲蔵
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」 岩波書店
1968(昭和43)年2月13日
初出「藝文 第五年第一〇號」1914(大正3)年10月
入力者はまなかひとし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2002-01-15 / 2014-09-17
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

この論文を讀む人は、更に大正十四年十二月發行の『白鳥博士還暦記念東洋史論叢』中に收めた拙稿「歴史上より觀たる南北支那」を參照ありたい。

 晉室の南渡は支那の世相の一大廻轉で、種々の方面に重大なる影響を及ぼして居る。從つて支那歴史上決して輕々に看過すべからざる事變である。晉室の南渡を起頭とした三百年間、概して言へば六朝時代は、多くの場合に於て、一般の史家より餘り重要視されて居らぬが、支那の文化史の上より論じても、將た民族史の上より觀ても、重大なる意義を有して居ることと思ふ。

         一

 支那の古代に於ける漢族の根據地、從つて支那の文化の中樞は、北支那に限つたもので、南支那は全然無關係であつた。南北支那の區別は、必ずしも一定して居らぬが、大體より論じて、北支那とは主として黄河の流域地で、今の直隷・山西・山東・河南・陝西・甘肅の地に當るのである。南支那とは揚子江の流域、殊に主として江南の地を指すのである。今の地理でいへば、湖南・江西・浙江・福建・廣東・廣西諸省の地である。湖北・安徽・江蘇三省の地は、その大部は江北に在るけれども、勿論南支那の範圍に屬すべきものである。但この三省の北部殊に淮北の地は、むしろ北支那の色彩を帶びて居る事實を否定することが出來ぬ。
 ドイツの Richthofen は古代に於ける漢族の發展に就いて、大要次の如き見解を下して居る(1)。
 (1)漢族は所謂堯舜時代より遙か以前に於て、支那本部の地に移轉して來た。彼等の原住所は不明であるが、支那の古典の記事から推して、彼等が曾て甘肅西部の所謂河西地方に住居したことは疑を容れぬ。
 (2)この河西地方から崑崙山脈の北麓に沿ひ、今の蘭州府(甘肅)鞏昌府(甘肅)等を經て、渭水の上流に出で、次第に東に進み、今の西安府(陝西)管下の平原へ來て、茲で彼等が中央アジアから將來した農耕を試むることとなつた。
 (3)渭水の流域を占領した後ち、漢族は成るべく山地を避けて、灌漑の便利ある平地を選びつつ、尤も農耕に適當した方面に發展して往つた。この結果として、彼等は自然下の如き二つの方向をとることとなつた。
(a)彼等は一方では黄河を越えて、汾水の下流より山西方面に向うた。
(b)一方では彼等は黄河の流に沿うて、河南府(河南)附近の平原に出で、それから更に三方面に發展して往つた。その一は懷慶府(河南)を經て、黄河と太行山との間に沿うて北に進み、一つは伊水を溯つて、汝州(河南)南陽府(河南)を經て南に進み、一は東進して山東方面に出で、茲から北して黄河の下流地に發展し、又は南して淮水の流域から、次第に揚子江の下流に發展したことと思ふ。
 漢族の原住地の問題はしばらく措き、古代の漢族が黄河流域の北支那を根據地として、發展して往つたことは、殆ど疑を容るる餘地がないのである。
 漢族は夙に自らその四隣の異族と…

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