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ハルピンの一夜
ハルピンのいちや
作品ID376
著者南部 修太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若き入獄者の手記」 文興院
1924(大正13)年3月5日
入力者小林徹
校正者柳沢成雄
公開 / 更新2000-02-19 / 2014-09-17
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 頭の禿げた、うす穢いフロツク姿の老人の指揮者がひよいと立ち上つて指揮棒を振ると、何回目かの、相變らず下品な調子のフオツクス・トロツトが演奏團席の方で始まつた。落ちぶれ貴族の息子とでも云ひさうな若いロシヤ人、眼の動かし方に厭味のある、會社の書記風のイギリス人、髪の毛を妙に凝つた仕方に縮らせたアメリカ人の下士官、金儲けにぬけめのなささうな、商人らしい中年のフランス人、何れも其處の常連だと云ふ、何處となく下等な身成をした、一癖ありげな顏附の男達の十餘人と、それを彩る酒塲稼ぎのロシヤ人の賣笑婦達――壁際のテエブルのまはりに休んでゐた彼等は順順に立ち上つて、それぞれに腕を組み合せながら、強い酒の香と、煙草の烟のむつと立ち罩めた、明りの色の如何にも陰氣くさいホオルの中へ、樂の音に合せて踊の輪を作つて行く。まだお客の掴めない女達は自分達同士の組を拵へて、紅を使つた厚い化粧の毒毒しい顏に蓮葉な笑ひを浮べながら、腰の振方に蠱惑するやうな誇張を交へながら、踊の輪の中へ加はつて行く。氣持を變に浮き立たせる樂音の渦卷、靴の踵と床の擦れ合ふ響、踊りながらする男女の囁き、その間に時時洩れる女達の淫蕩な笑ひ聲。正面の酒賣棚の右手の壁に掛かつた六角時計を見ると、丁度一時五分だつた。私はふと思ひ出して、半分殘つてゐたグラスのウイスキイをぐつと呑み干した。
「おや、何時の間にはいつて來たんだらう?」と、その時踊の輪の方を眺め降してゐた水島君は、一息吸つた葉卷の烟をふうつと吐きながら呟いた。
「何だい?」と、とろんとして來た眼を見張りながら、私は水島君の視線の行手を追つた。
「ほら、あのでつぷり肥つたロシヤ人と組みながら、今、こつちを向つて笑つてる女があるだらう。――緑色の上着を着た……」
「うむ、ゐるゐる。――素適な美人ぢやないか……」頷き返しながら、私はその女の方を思はず惹きつけられるやうに見詰めた。
 それまで私もその女には氣附かずにゐた。丈の高い男の嚴丈さうな腕に、もたれるやうに腰を抱きかかへられながら、女は踵の高い赤革靴の運び輕げに踊つてゐる。房房した亞麻色の髪を羊の毛のやうに縮らせた、小柄の、然し肉附の好い女。強い線を描いた彫刻的な鼻と、きつと投げた瞳の光に何處となく智的な感じがあつた。年は二十二三なのであらう。如何にも物慣れた、形の好い恰好に踊り續けながら、時時眞面になる女の顏には、外の女達とは際立つて品の好い、が、同時に強く人の眼を奪ふやうな魅力のある笑ひが始終たたへられてゐた。
「あの女がね……」と、グラスを一啜りして、水島君は云つた。
「うむ……」
「この酒塲での一番腕つこきなんださうだよ。」
「さうだらう。――美人ぢやあるし、何處か凄さうな處があるもの……」と、相槌打ちながら、私は水島君を振り返つた。
 と、水島君は何故かにやりと笑つた。
「處でね、あの女の前身は何だと思…

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