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雲母片
うんもへん |
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作品ID | 3834 |
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著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社 1981(昭和56)年3月20日 |
初出 | 「女性改造」1924(大正13)年3月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 磐余彦 |
公開 / 更新 | 2003-11-15 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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わかい、気のやさしい春は
庭園に美しい着物を着せ
――明るい時――
林町の家の、古風な縁側にぱっと麗らかな春の白い光が漲り、部屋の障子は開け放たれている。室内の高い長押にちらちらする日影。時計の眩ゆい振子の金色。縁側に背を向け、小さな御飯台に片肱をかけ、頭をまげ、私は一心に墨を磨った。
時計のカチ、カチ、カチカチいう音、涼しいような黒い墨の香い。日はまあ何と暖かなのだろう。
「ああちゃま、まだ濃くない?」
母は、障子の傍、縁側の方に横顔を向け、うつむいて弟の縫物をしていた。顔をあげず、
「もう少し」
丸八の墨を握ったまま、私はぴしゃ、ぴしゃ硯を叩いて見た。自分の顔は写らないかと黒い美しい艷のある水を覗いた、そしてまた磨り始める。
何処かで微かな小鳥の声。
見えないところに咲いている花の匂いが、ぽかぽかした、眠くなる春の光に溶けて流れて来るようだ。
彼方側の襖の日かげがゆれて母が立って来た。
「もういいだろう?」
私は、墨で硯の池の水を粘らせて見た。
「どろどろでなくっていいの?」
「この墨は、灰墨じゃあないから、そんなにどろどろにはならないよ。半紙は?」
「ここ」
私は、七歳で、真白い紙の端に墨の拇印をつけながら、抓んで半紙を御飯台の上に展げた。母は、傍から椎の実筆を執り池にぽっとりした! 岡でくるくる転して穂を揃えた。その筆を持って、小さく坐っている私の背後に廻った。
「さあ筆を持って。――そうじゃあなく、その次の指も掛けて、こう」
「こう?」
「そうよ。いいかえ。一番先にいろはと書いて見よう、ね。よく見ていて、次には一人で書くんだよ」
母は、生れて始めて筆を握った私の手を上から持ちそえ、
「ほら、点。ズーッと少しまげて、ちょん。これで片方。こっちは、やっぱり始めに力を入れて、外へふくらがして――ちょん。」口でいいながら、三寸四角位の中に一ついの字を書いた。
指の覚えもなく、息を殺して白い、春の光に特に白い紙の面を見つめていた私は、上から自分の手を捕まえた母の力がゆるむと、溜息をついた。
黙って字を眺め、首をねじ向けて後に中腰をしている母の顔を仰見た。
母は、私のおかっぱの頭越しにやはり字を見、
「――変な形に出来たこと」と独言した。
「さあ、今度は百合ちゃんの番。書いて御覧。下手でもいいのよ」
私は、体じゅう俄に熱くなり、途方に暮れながら、被布の房を揺すって坐りなおした。筆を握ったが、先の方が変にくたくた他愛がなく、どんな風に動かしていいかわからない。正直にいえば、母が、どっちから、どう書き出したかも、余り珍しく熱心に気をとられているので判らない。
暫く躊躇した後、私は思い切って力を入れ、硯に近い右の方から、ぐっと棒を引いて先をはね、穂先もなおさず左側に向い合ってもう一本の棒を引いた。
ひどく力を入れた上に、…