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春
はる |
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作品ID | 3850 |
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著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社 1981(昭和56)年3月20日 |
初出 | 「ウーマンカレント」1925(大正14)年5月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 磐余彦 |
公開 / 更新 | 2003-11-18 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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硝子戸に不思議に縁がある。この間まで借りていた二階の部屋は東が二間、四枚の素通し硝子であった。朝日が早くさし込む。空が雑木の梢を泛べて広く見渡せ、枝々の間から遙に美しく緑青をふいた護国寺の大屋根が見えた。温室に住んでいるよう、また、空中に浮いているような気もしたが景色はよかった。今度引越した小さい家は、高台ではあるが元の借間程見晴しはない。けれども硝子戸はここにもあって、南方の縁側が八枚、雨戸なしだ。黎明、朝、ひる間、順々に外光がたっぷり八畳に流れ込む。夜、森とした中で机に向ってい、ひょいと頭を擡げると、すぐ前に在る障子の硝子面、外の硝子の面と、いきなり二重に自分の顔や手つきが映り、不気味になる。――ああ、こんなにすき透し! 泥棒にすっかり見られてしまう。どうしても、カアテンがなければ駄目だ!
カアテンをまだ買わないので、朝少し眩しい。私は沢山ぐっすり眠りたい。そこで、工面をし、机の引出しから友達の香典がえしに貰った黒縮緬の袱紗を出した。それを二つにたたみ、鼻の上まで額からかぶる。地がよい縮緬なので、硝子は燦く朝なのに、私の瞼の上にだけは濃い暗い夜が出来る。眠り足らず、幾分過敏になりかけていた神経は快いくつろぎを感じ、更に二三時間休みを得るのだ。
一緒に暮している友達は、いつも私より一時間位早い。彼女は、目が醒めると勢よく二階から降りて来る。その階子が、私の眠っている部屋の頭の方に当るので跫音は大抵ききつける。ききつけながら、私は眠りつづけるのだが、友達は、どちらかといえば私にも早く起きて欲しいに違いない。起きてよい頃と思うと、物音に遠慮しない。
然し、その朝は余り眠く、体がくたくたであった。眠いという溶けるような感覚しか何もない。十一時頃茶の間にやっと出た。まだ包紙も解いてないパン、ふせたままの紅茶茶碗等、人気なく整然と卓子の上に置かれている。――奇妙なことと思い、少し不安を感じた。起きた順に、朝食はすまして勉強することに定めてあるのだから。見ると、日の照る縁側に、まだ起きぬけのままの姿で、友達が立っている。ただのんきに佇んでいるのではない。丁度自分のところまで閉めた硝子戸によりそい、凝っと動かず注意をあつめて庭の方を視ているのだ。私は生きもの同士が感じ合う直覚で、ひとりでに抜き足になった。そして後から廻って近よった。
「どうしたの、なあに?」
「文鳥が逃げちゃった。そこにいるのに」
成程! 籠の中は一羽だ。つい鉢前の、菊の芽生えの青々とした低いかげにもう一羽が出ている。外にいる方の文鳥は、見違えるほど綺麗に感じられた。瑞々しい、青い、四月の菊の葉に照って、薄桃色の、質のよい貝殼のような嘴、黒天鵞絨のキャップをのせた小さい頭、こまやかな鼠灰色の羽なみが、実に優美だ。鳥は、チチ、チチ、と短く囀りながら、二とび三とび地面を進んで見る。思いがけず翔び出…