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京都人の生活
きょうとじんのせいかつ |
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作品ID | 3863 |
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著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社 1981(昭和56)年3月20日 |
初出 | 「改造」1926(大正15)年6月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 磐余彦 |
公開 / 更新 | 2003-11-21 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 2 ページ(500字/頁で計算) |
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都会が、いろいろな特色をもっている。面白いことと思う。京都などこれまでちっとも知らず、近頃たまに来て、まだ馴れないよその人の目で見ると、感じ方が、その土地で暮している者とは違う。京都人の日常生活の細やかさ、手奇麗さなど、風景でも大ざっぱで野趣のある関東から来た人は、誰でも賞め、価値を認める。全く或る点よい。だが、其なら京都の人は本当に情趣豊かな風流人かというと、さて、と思う。面白いことに、生粋の京都生れ、京都暮しの女性を見ていると、彼女は本当によい色彩で着物を選び、家の隅々まできちんと行き届いた生活ぶりでやっているが、しんに迫って見ると、ただ伝統の力で自然にそうやっているというだけのところがあるらしい。電車にのって見て受ける第一の印象が東京などと違う。女の人は皆よそゆきで、とりすましている。東京のように、活動を運搬している激しさがない。外へ出るに、今頃は此服装でなければ見っともない。そういうことを、女のひとは念頭に置かないで暮せないらしい。外見は、物静で、ちんまりしているけれど、内部で、そういう些事に労する神経は並大抵でないらしい。なかなか窮屈なことと思う。
女の人が、総体経済家で、きれいずきで、家政的に育て上げられているのは、一寸傍から見れば、共に生活する男の人の幸福のようだが、右を向いても左を向いても、母、妻、姉妹皆同一の型でちんまり纏っているとうんざりと見え、京都の男は遊ぶ。
遊びの場処も、亦伝統で都合よく出来ているというが、そのように都合よく遊べる場処にする丈、遊び熱が、京男に強いと云えよう。心理的に原因をさがすと、家庭の女性が余りドメスティケートされすぎ、極端に云うと永代女中頭みたいな点。都市の活動が緩慢で、時間と精力にゆとりがある故。――全く少し感情の強い現世的な人間が、あの整った自然の風景、静かな平らな、どこまでも見通しの利く市街、眠たい、しきたりずくめの生活に入ったら、何処ぞでグンと刺戟され情熱の放散を仕たいと切に望むだろう。そういう超日常を欲する心を、一いきに、古都の宝である芸術鑑賞にむけるだけの精神力の活溌さは概して失われているらしい。京都人は男も女もリアリストと思う。
〔一九二六年六月〕