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吠える
ほえる
作品ID3865
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日
初出「新小説」1926(大正15)年7月号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-11-21 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 雨が降って寒い夕暮など、私はわざと傘を右に傾け、その方は見ないようにして通るのだ。どういう人達が主人なのだろう。そしてまた何故、あの小舎を、彼処に置いておくのだろう。私は、坂を下りかけると、遠くから気をつけて行く。白いものがちらりと見えたり、かちゃりと鎖の音がしでもすると、私は矢を禦ぐ楯のようにいそいで傘を右に低く傾ける。登って行く時なら反対の方へ――左へ傾ける。それで眼で見ることだけは免れるようなものだが、私は楽でない。彼処にあれが、ああやって生存する間私は完全に楽にはなり切れまい。――私は或る一匹の犬のことをいっているのだ。
 然し、それより前、家のことを話そう。その犬の飼われている家は、小石川の二つの丘陵地帯を繋ぐ、幅広い坂の中途にある。坂の中途に建った家がよくそうである通り、家全体の地盤が坂より低い。二三段石の踏段を降りて、門から玄関までの敷石を渡ることになっている。細長い、樫の木の生えた、狭く薄暗い門先だ。そこに、犬小舎が置いてある。軒下ではない。門柱の直ぐ傍だ。何だか粘土質らしい、敷石はずれの地びたの上に、古びた木造の犬小舎がある。
 私は、その門から男も女も、活々した姿を現したのを嘗て一瞥したことさえない。門扉が開き、まして近頃はアンテナさえ張ってあるのが見えるから、確に人はいるのだ。それにも拘らず、私が通る時出会うのは人ではない。犬だ。いつも、犬だ。白い頭の上から墨汁の瓶をぶっかけられたように、黒斑のある白犬だ。
 斑犬を、私は一概に嫌いだというのではない。鷹揚で快活な斑もあるが、その犬のように、全体はっきりした白と黒とで穢れたようなのは、陰気だ。その上、まるで面長な色白い人間の婆さんのような表情を、この犬は持っているのだ。樫の木は、冬でも小暗い蔭を門になげている。家はがらんと人気ない。そこに、鎖につながれ、この斑の婆さん風な犬が私を見ている。――おまけに、その犬は、世間普通な犬の吠え方を知らないのか忘れるかしている。吠える声を聞くといつも遠吠えだ。死人の魂を動物の本能が感じて恐怖するという遠吠えだ。ワオーと、鼻にぬかして遠吠えする。
 天気のいい、そして、或る私が最も神経的になることさえ起らない時なら、その斑犬を見るのも平気だ。困るのは或る一事の外天気のわるい時、雨の降る日。この時こそ私にとって目かくし役をする傘がどんなに有難いかわからない。どんな主人が住んでいるのであろうというのはここのことだ。軒下へ犬小舎を置いてやらない主人は、雨が一日びしょびしょ降りつづいても、小舎を雨ざらしの門傍に出したままだ。坂からの傾斜があるから、泥水はどしどし門内に流れ込む。粘土が泥濘になる。小舎の敷藁――若しあるとして――もぐちょぐちょであろう。斑の、いやに人間みたいな顔付の犬は、小舎の中にも居られず、さりとて鎖があるから好きな雨やどりの場所を求めることも…

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