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山峡新春
さんきょうしんしゅん
作品ID3877
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日
初出「愛国婦人」1927(昭和2)年1月号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-11-24 / 2014-09-18
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 夜中の一時過、カラカラ、コロコロ吊橋を渡って行く吾妻下駄の音がした。これから女中達が髪結に出かけるのだと見える。
 私共は火鉢を囲み、どてらを羽織って餅を焼きながらそれを聴いた。若々しい人声と下駄の音が次第に遠のき、やがて消えると、後に川瀬の響が高く冴えた。吊橋にこんもりかぶさって密生している椎の梢の上に黒い深夜の空があり、黒が温泉場らしく和んだ大気に燦いているのが雨戸越しにも感じられる。除夜の鐘も鳴らない大晦日の晩が、ひっそりと正月に辷り込んだ。

 三ガ[#「ガ」は小書き]日の繁忙をさけて来ている浴客だが、島田に結った女中が朱塗りの屠蘇の道具を運んで部屋毎に、
「おめでとうございます。どうぞ本年もよろしく」
と障子をあけた。正月が来たような、去年と変らぬ川瀬の音で来ぬような一種漠然とした心持に、天気が時雨て来た。
 コートを着、宿の白革鼻緒の貸し下駄を穿いて、坂をのぼり、村なかをぶらぶら歩いた。轍の跡なりに凍った街道が薄ら白く延びて人影もない。軒に国旗がヒラヒラ。
 伊豆蜜柑を買おうと八百屋へ行った。雨戸を一枚だけ明けた乾物臭い暗い奥から、汚れた筒っぽ袢纏を着た女房が首を出した。

 なるほど天城街道は歩くによい道だ。右は冬枯れの喬木に埋った深い谷。小さい告知板がところどころに建っていて、第×林区、広田兵治など書いてある。その、炭焼きか山番かであろう男が一人いる処は、向う山か、遙かな天城山の奥か。
 或る角で振返ったら、いつか背後に眺望が展け、連山の彼方に富士が見えた。頂の雪は白皚々、それ故晴れた空は一きわ碧く濃やかに眺められ、爽やかに冷たい正月の風は悉くそこから流れて来るように思えた。
 道傍の枯芝堤に、赤や桃色の毛糸頸巻をした娘が三人、眩しそうに並んで日向ぼっこをしていた。

 女役者の一座がかかった。
 小屋は空地にある。××嬢へとした幟がはためいていた。やはり人気ないそこの白い街道を歩いていたら、すぐ前の木賃宿の二階で義太夫のさわりが聞えた。ガラリと土間の障子が開いて、古びた水色ヴェールを喉に巻きつけた女が大きな皿を袖口に引こめた手で抱えて半身を現した。
「五十銭だよ」
 生欠伸をする声が内部でした。
「あああ」
 そのような女役者が夜になると山中鹿之助を演じた。
「いらっしゃーい! お二人さんお二階」
 チョンチョンと下足札を鳴らすが、小屋は満員で、騒然としていて、顔役は、まがい猟虎の襟付外套で股火をし、南京豆の殼が処嫌わず散らかっているだけだ。山塞の頭になった役者が粗末な舞台で、
「ええ、きりきりあゆめえ!」
と声を搾って大見得を切った。
「そこだッ!」
 むきだしな花道の端れでは、出を待っている山賊の乾児が酔った爺にくどくど纏いつかれている。眼隈を黒々ととり、鳥肌立って身震いしながら「いやだよ、うるさい」とすねていた女は、チョン、木が入る…

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