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時計
とけい
作品ID3925
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日
初出「ペン」1937(昭和12)年2月号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-12-03 / 2014-09-18
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私が女学校を出た年の秋ごろであったと思う。父が私に一つ時計を買ってくれた。生れてはじめての時計であった。ウォルサムの銀の片側でその時分腕時計というのはなかったから円くて平たい小型の懐中時計である。私は、それに黒いリボンをつけ、大変大切に愛してもっていた。袴をはいたときは、袴の紐にその黒いリボンをからみつけて。
 或る日、急に八重洲町の事務所にいる父に会わなければならない用が出来た。どういう道順であったか、上野の山下へ出た。そこで自働電話を父へかけた。何時までならいると父が云ったので、私は、黒リボンを帯留めにくくりつけるひまのなかった例の時計を電話機の前の棚のところへ出してのせ、それを眺めながら、だって父様すこし無理よ、十五分のばしてよ。などかけあった。
 自働電話を出て、少し行った時、私は俄に額際から汗の滲み出すような気持になり、殆ど駈けて、今出て来た自働電話の箱へ戻り、そのままとびこんだ。人は入っていなかった。だが、もうそこの棚には、私の大切な銀時計がない。私は暫くその中に立ったまま首をかしげ、歩き出すことが出来なかった。どんな人がもって行ったか、その人相を想像するよすがもない。私は、父の顔を見た途端、困っちゃったと云った、時計をなくしちゃった、と云った。泣けないけれども、そういう時は、頬っぺたがとけたような心持であった。
 これの代りに、程経ってから両蓋のやはりウォルサムの銀側が出来た。父がこれも買ってくれたのであった。私はそれに再び黒いリボンを結びつけた。北海道で、荷馬車のうしろへ口繩をいわいつけた馬にのってアイヌ村を巡った時、私の帯の間にはこの時計が入っていた。
 ニューヨークの寄宿舎では豌豆がちの献立であったから腹がすいて困った。その時、デスクの上で何時かしらと眺めるのも、その時計であった。
 ところが、二年ばかりすると、動かなくなってしまった。ウォルサムの機械の寿命がそんな短いわけはない。どれ、俺がなおさせてやろう。第一回は父が直しに出し、次には私が出した。しかし、もう元のように動かず、三度目に直させた時、ああ、これは内の部分品が代っています。別なのが入って居りますから、どうも……。とことわられた。私はその頃、非常に自分の居場所におちつけない妻としての生活をしていた。夫婦喧嘩のようなことをして、家にいたくなかった夕方、ふらりと、その結婚前からの時計、今は故障している時計をもって店も考えつかず足の向ったところで直させたのであった。そこで、胡魔化されたのであったろうと思う。其とて、はっきりした証拠はないのであった。
 時計は性に合わないらしいから、いらないわ。そう云い、又思いして、其から永年私は時計なしに暮した。私は、その良人であった人と別れた。
 一九二七年の冬、ロシアへ行くときまったとき、じゃあ、餞別に一つ時計をやろう、父がそう云って、私を銀座…

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