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父の手紙
ちちのてがみ
作品ID3985
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日
初出「婦人朝日」1941(昭和16)年4月号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-12-18 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ユリチャン、コレガオトーサマノ、ノッテイルフネデス。
 片仮名でそういう文句をかいた欧州航路の船のエハガキが、五つの私へ父からおくられて来た。父はイギリスへ行くところで、まだ字の読めなかった娘へも最初のたよりを、そのようにして書いてよこしたのであった。
 灯がその火屋の中にともるとキラキラと光るニッケル唐草の円いランプがあって、母は留守の父のテーブルの上にそのランプを明々とつけ、その上で雁皮紙を詠草のよう横に折った上へ、細筆でよく手紙を書いた。白い西洋封筒は軽い薄い雁皮の紙ながら、ふっくりと厚くて、その一封の便りが印度洋を越えてロンドンまで行くということが、母には判っているような心許ないような気がしたのだろう。いつも封じめには封蝋の代りに赤だの青だののレースのような円い封印紙が貼りつけられた。小さい私は、そのテーブルのわきに立って、やがてオトーサマと紙からあふれるような字を書くことを習った。あとにはいつもつづけて、ハヤクオカエリナサイ、と書いた覚えがある。いま思えば、それは五つの娘の心の願いというばかりではなかったであろう。
 足かけ五年の旅行の間、父はどっさりいろんなエハガキによく筆まめに娘へのたよりをくれた。白いふーわりとした服をつけた女の児が、頭に春の花の輪飾りをのせて、嬉しそうにリンゴでお手玉をとっている絵ハガキに、お手玉うたのようなものを書いてくれたのもあった。二羽の鵞鳥の絵物語の本に、一つ一つ口調のいい翻訳をつけて、オヤマアこれは鵞鳥さん、ミミズをくわえて引っぱりっこ、というような文章のついた絵本を送ってくれたりした。その絵本の一頁に、二羽の鵞鳥が久しぶりに会って大喜びのあまり、互に頸を巻きつけあっている絵があった。そのわきにも父が、ほんとにうれしいぐわっ、ぐわっ、ぐわっ、というような文句をかいてくれたのであったが、それを見た母はなぜだかいやな顔をして、墨をふくませた筆でその文句の上へ太い棒をひいて消してしまった。驚いた悲しい心持で小さい娘だった私は、その怪我したような絵本をくりかえしくりかえし眺めた。母のそんな気持も今になってみれば何か察しられるところがなくもない。頸をからめあうというような表現や、それに愉しそうな文句を添え書きしている若い父の、見えない外国暮しの日常に向って、その頃は三十にもなっていなかった母の、やや窮屈で昔風な、しかも本来は情熱的な感覚は敏感にとがれていたのであったろう。
 父の性質、そして母の性質のちがいや、そこから醸された全生涯の、睦しくてしかしなかなかむずかしかったいきさつの片鱗が、こんなことにも本質的なものを閃かせているのである。
 私が大きくなってからの父は、随分あちこちに出張の旅行をしたが、筆まめとはいえなくて、母あての手紙も大抵は箇条がきのように用件をかいたのが多くなった。それでもそのあとさきには、よく眠れま…

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