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青草
あおくさ
作品ID4088
著者十一谷 義三郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本文学全集88 名作集(三)昭和編」 集英社
1970(昭和45)年1月25日
初出「文芸時代」1924(大正13)年12月
入力者土屋隆
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2001-11-29 / 2014-09-17
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 杉兄弟は支配人の娘の歌津子とほとんど同じ一つの揺籃の中で育った。彼らが歌津子の母親の乳房を見て甘い微な戦慄を覚えたこともある。歌津子が彼らの父の大きな手で真紅な帽子を被せられて、誇らしさとよろこびに夢中になったこともある。それから、細い色糸が、彼ら三人の手から手へ、唄に合せて、幾度、美しい幻影を織ったことだろう。弟の手がそっとうしろから彼女の清い眉の上を蔽うたこともある。兄が胴を持って彼女のからだを色紙の風車を廻すように、日なたできりきりと振り廻したこともある。
 そうして、ある日、彼らの明るい淀みのない夢の世界に、決定的な出来事が起ったのであった。
 その日、弟が鬼にあたって、兄と彼女とが手を携えて遁げた、弟は納屋の蔭に退いて、その板塀に凭れながら、蒼く澄んだ空へ抜けるほどの声で一から五十まで数を算え初めた。その間に小さな駈落者らは、大忙ぎで裏庭の雑草を踏み越えて、そこに立っている無花果の樹に攀じ登った。
 五十が切れると鬼が納屋の蔭から駈けだしてきた。彼は微風に光り動いている雑草の上に眼をやって、しばらくぼんやりと立ちつくしていた。
 ふと青い無花果が飛んできて彼の足もとに落ちた。彼が見上げると、向うの樹の上からどっと歓声が起った。兄と彼女とが同じ枝に止って、真白な口ばたに無花果の実の汁をつけて、笑っているのだった。弟はその下へ駈けよった。
「おいで。無花果進上。」と兄が言った。
「そうよ。無花果進上。」と彼女も言った。
 弟は樹の幹に手をかけて振り仰いで、彼らを睨まえた。その時、弟は兄の頬に、何かが止っているのに気がついた。葉越しの太陽の光りが、彼らの白い皮膚の上に、もろもろとした斑点を写しているので見分けにくいが、じいっと眸を凝らすと、大きな蜘蛛が、脚をいっぱいに伸して、奇怪な文身か何かのように、兄の頬にへばりついてるではないか。弟は二三歩あとへよって、無言のまま蒼くなって兄の顔を指した。
「あら、あら、あら」そう叫びながら、彼女は樹の幹に震えついた。異常な神経家の蜘蛛はただならぬ雰囲気を感じたのだろう。兄の頬から細い首筋の方へ動き初めた。兄が何気なくそこへ手をやると、蜘蛛は今度はその手の甲の上に蟠まって、腹を動かした。兄は忙ててもう一方の手でそれを払った。そうしてその瞬間に彼のからだは中心を失って地上に落ちた。
 彼女と弟とは固くなって眸を見張った。兄は俯伏せに横わったまま片方の眼を押えてしくしく泣いていた。その指の叉から濃い血が滲みでてくる。そして、彼の頭の上の空間には、脚を縮めた醜い蜘蛛のからだが、上の樹の枝の揺れにつれてもぞもぞと動いているのだ。
 きゅうに彼女が、樹の上で破れるように泣きだした。弟もぼろぼろと涙を流した。そして主屋の方へ一散に駈けながら、遠くの彼女と声を合せて泣いていった。

 兄の左の眼はその時以来ずっと黒眼鏡で蔽…

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