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考古学教室の思ひ出話
こうこがくきょうしつのおもいでばなし
作品ID42153
著者浜田 青陵
文字遣い旧字旧仮名
底本 「青陵随筆」 座右寶刊行會
1947(昭和22)年11月20日
初出「京都帝國大學文學部三十周年史」1935(昭和10)年11月
入力者鈴木厚司
校正者門田裕志
公開 / 更新2004-06-17 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 明治四十二年史學科の組織が略ぼ出來上つた次の年の九月に、私は講師として始めて本學へやつて來たのでありますから、創立の際に關する事は一向私には分りませんので、たゞ考古學教室に關することだけに就いて少しく申上げることに致します。
 東京帝國大學には理學部に人類學の講座があり、坪井正五郎先生が其の教授として、傍ら考古學の講義をせられて居ましたので、私なども文科の學生でありますが、之を聽きに行つて居りました。處が京都帝國大學で史學科を設けることになつては、どうしても將來考古學の講座を作らなければならないと云ふ考が、創設の際から内田、原、桑原、小川、内藤、三浦などの諸教授の間にあつて、それを何うするかと云ふ問題になりまして、出來上つた學者を聘するよりも、若い人間を養成しようと云ふことになり、遂に私如きものが本學に呼ばれることになつたと聞いて居ります。併しながら其の初めは別に考古學を講義するには及ばぬ、それよりも丁度瀧精一氏が講師として日本美術史の講義をして居られた後を承けて、暫く美術史をやれとの事で(私はそれ迄東京の國華社に居りその方面の仕事をやつて居つたのでありました)、赴任以來兩三年の間、私は哲學科の講義として一時間宛日本美術史を講じて居りましたが、四十五年頃から將來留學の際の準備として、歐州の考古學を少し研究せよとの事で、その方の講義をも一時間宛やり出しました。是が我が大學に考古學と云ふ名のつく講義の始まつた最初であります。當時史學科の諸教授は私が大學に於いて、或は高等學校に於いて教を受けたことのある諸先生であり、いづれも或は日本、或は支那、西洋に關する考古學に關して深い興味のある方ばかりでありましたので、何くれとなく考古學教室の完成に向つて同情ある助力を致され、それが結成して今日の如き體容を整へるに至つたことを思ひますと、感慨無量でありまして、此等大方は物故せられました諸先生に對して、今更ながら深い感謝の情を禁じ得ないものがあるのであります。それで内田、原兩先生の如きは、私に東京への旅行などは差し留め、連年九州へ神籠石などの調査を命じられ、内藤、狩野、小川三博士などは、將來支那や滿洲へ調査に行かねばならぬからと云つて、北京へ敦煌の經卷を調査に行く際に私を引つぱつて行かれ、私は始めて洛陽まで旅行し、滿洲へも廻つて發掘をやることになりました。坂口先生に御伴をして宮崎縣西都原の古墳發掘にも行きましたが、此等は皆な私が講師として留學以前のことであつて、諸先生の若い人を如何に懇切に熱心に指導誘掖せられたかを、今日に至つてつく/″\と感佩する次第であります。そして次の年からは書物を買ふ費用として考古學は先づ五百圓の金を貰ふことになつたのであります。
 明治四十五年即ち大正元年、幸にも英佛獨に三年間私は留學の命を受けることになりましたのも、當時留學生の少い時分に於きまして…

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