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『伝説の時代』序
『でんせつのじだい』じょ |
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作品ID | 42156 |
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著者 | 夏目 漱石 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「ギリシア・ローマ神話」 岩波文庫、岩波書店 1978(昭和53)年8月16日改版 |
初出 | 「傳説の時代」尚文堂、1913(大正2)年 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | kamille |
公開 / 更新 | 2004-08-07 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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私はあなたが家事の暇を偸んで『傳説の時代』をとう/\仕舞迄譯し上げた忍耐と努力に少からず感服して居ります。書物になつて出ると餘程の頁數になるさうですが嘸骨の折れた事でせう。原書は私の手元にもあるから承知してゐますが、一寸見ると四六版の小形の册子に過ぎませんけれども、活字は細かし、上下は詰つてゐるし、讀むのにさへ隨分の時間は懸ります。況して一行毎に譯して行くとなつたら、それを專業にする男の手でもさう容易くは出來ません。況して夫の世話をしたり子供の面倒を見たり弟の出入に氣を配つたりする間に遣る家庭的な婦人の仕業としては全くの重荷に相違ありません。あなたは前後八ヶ月の日子を費やして思ひ立つた翻譯を成就したと云つて寧ろ其長きに驚ろかれるやうだが、私は却つて其迅速なのに感服したいのです。
出版に就て私の序文が御入用だとの仰は謹んで承りましたが、私はあらゆるミスに就て何事もいふ權利を有たない無學者なのだから少からず困却します。私は希臘の神話に就いて、あそこを少し、こゝを少し、と云つた風にうろ覺えに覺えてはゐますが、系統的には研究もせず、批判もせず、漫然と今日迄經過して來た事を、今日あなたの前に自白しなければならなくなりました。あなたの御譯しになつた原書は、今でもちやんと私の書架の中に飾つてあります。それを買つたのは何時の頃の事か覺えてゐない位ですから定めし古い昔だらうと思ひます。けれども其昔に買つた本を、今日迄まだ一度も眼を通した記憶がないのも慥かな事實ですから、私は希臘の神話にかけては、あなたよりも遙かに無知識なのです。立派な序文の書けやう筈がありません。
御存じの通り私は英文學出身のものですから、高等學校在學の頃から歐洲文學の根柢に横はる二つの寶庫(聖書と希臘神話)をいつか機會を見て思ふまゝ熟覽して置きたいといふ希望を抱いてゐましたが、御恥づかしい事に、此機會は永久に多忙な自分の眼前に遂に出現せずに濟んで仕舞ひました。
私が高等學校にゐる頃同級生に松本亦太郎(今の文學博士)といふ人がゐました。此人は其頃熱心な基督信者でしたが、ある時私に、聖書を日に何頁づゝとか讀むと、丁度三年目に新舊兩約全書を通讀する事になるといつて、それを日課として毎日怠らず繰返してゐるやうでした。私は其話を聞いた時、たとひ私が耶蘇教徒でないにせよ、バイブルは文學上必要の書物だから、さういふ課程をこしらへて、長い間に通讀したら嘸有益だらうと思つて、既に遣り始めようと迄決心した事があります。然し好きな事にばかり夢中になり易い、又厭な事に始終追ひ懸けられてゐた其頃の私には、ついに夫すら果さずじまひに終りました。夫だから、私のバイブルに於ける知識は非常に貧弱なものです。さうして私の希臘神話に於る知識も亦これに劣らぬ程憐なものなのに過ぎません。
それがため學校を出て教師をしてゐる時分には、よく雙…