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接吻
せっぷん
作品ID42157
著者斎藤 茂吉
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 38 齋藤茂吉集」 筑摩書房
1969(昭和44)年11月29日
入力者しだひろし
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2004-01-01 / 2014-09-18
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 維也納の G[#挿絵]rtel 街は、ドナウ運河の近くの、フランツ・ヨゼフ停車場の傍から起つて、南方に向つて帯のやうに通つてゐる大街である。そこには、質素な装をした寂しい女が男を待つてゐたりした。金づかひの荒くない日本の留学生は、をりふし秘かにさういふ女と立話をすることもあつた。
 西暦一九二二年の或る夏の夕に、僕はささやかな食店で一人夕食を済した。そして、いつしか一人で G[#挿絵]rtel 街を歩いてゐた。僕はステツキも持たずに、かうべを俯して歩いてゐる。街道が大きいので、人どほりがさう繁くないやうに思はれる。平坦な街道がいつの間にか少し低くなつて、そこを暫く歩いてゐる。
 太陽が落ちてしまつても、夕映がある。残紅がある。余光がある。薄明がある。独逸語には、Abendr[#挿絵]te があり、ゆふべの D[#挿絵]mmerung があつて、ゲーテでもニイチエあたりでも、実に気持よく使つてゐる。これを日本語に移す場合に、やまと言葉などにいいのが無いだらうか。そして、夕あかり。うすあかり。なごりのひかり。消のこるひかりなど、いろいろ頭のなかで並べたことなどもあつた。欧羅巴の夏の夕の余光はいつまでも残つてゐた。
 僕は少し感傷的な気分になつて、ゆふべの余光のなかを歩いてゐる。さうすると、いそがしい写象が意識面をかすめて通る。いまやつてゐる僕の脳髄病理の為事も、前途まだまだ遠いやうな気がする。まだ序論にも這入らないやうな気がする。きのふの午後に見た本屋の蔵庫にあるあの心理の雑誌は、いくばくに値切るべきであらうか。あの続きを揃へようとせばライプチヒに註文して貰へばいい、日本にゐる童子は、学校でも遊び友だちは殆どないといふ妻からの便りがあつた。が、己に似たのかも知れん。云々である。写象は起つて忽ち過ぎ去つた。実は千万無量の写象である。
 僕はすでに長い長い G[#挿絵]rtel 街をとほり過ぎようとしてゐた。ゆふべの余光が消え難いと謂つても、もうおのづから闇のいろが漂つてゐる。そのうち街は細つて来た。街の中に歩道があつて、そこに香柏樹の並木が遙か向うまで続いてゐる。香柏樹はすでに暗緑の広葉で埋つてゐる。香の高い花は遠のむかしに散つて、今は柔い青いいろの実を沢山につけてゐる。そしてアムゼル鳥の朗かなこゑは、ときどき夕の空気を顫動させてゐる。歩道にはところどころにベンチが据ゑてあつて、そこに人が群がつて腰をかけてゐる。老いたるも若きもみな貧しき人々である。墺太利の貨幣の為換相場はそのあたりはぐんぐん下つて行つた。僕はしづかなところから、ざわざわしてゐるところに来たやうな気がして少しいそぎ足で歩いた。小さい童子がちよこちよこ僕のそばに来て、をぢさん、切手持つてゐない。持つてゐたら僕に頂戴。などと云つたりした。けれども僕はさういふものにはかかはらずに歩…

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