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下町
ダウン・タウン
作品ID42159
著者林 芙美子
文字遣い新字旧仮名
底本 「林芙美子全集 第九巻」 文泉堂出版
1977(昭和52)年4月20日
初出「別冊小説新潮」1949(昭和24)年4月号
入力者ふるかわゆか
校正者小林繁雄
公開 / 更新2006-08-22 / 2014-09-18
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 風が冷いので、りよは陽の当たる側を選んで歩いた。なるべく小さい家を目的にして歩く。昼頃だつたので、一杯の茶にありつける家を探した。軒づたひに、工事場のやうな板塀を曲つて、銹びた鉄材の積み重ねてある奥をのぞくと、硝子戸の中で、ぱちぱちと火の弾ぜてゐる小舎があつた。後から自転車で来た男が、片足を地へつけて「葛飾の区役所はどこだね?」と訊いた。りよは知らなかつたので、「私も、通りすがりのもので知りませんね」と云ふと、自転車の男は小舎の方へ行つて、大きい声で区役所はどこだらうと聞いてゐる。硝子戸を開けて、鉢巻をした職人風な男が顔を出した。「四ツ木の通りへ出て、新道をまつすぐ駅の方へ行けば判るよ」と教へた。りよは、鉢巻の男の様子が、人柄のいゝ人物のやうに思へたので、自転車をやりすごしてから、おそるおそるそばへ行つて、「静岡のお茶はいりませんでせうか……」と小さい声で聞いてみた。暗い土間では、七輪に薪を燃やして、鉄棒の渡しをかけた上に大きいやかんが乗つかつてゐた。「お茶?」「はい、静岡のお茶なンですけどねえ……」りよは、微笑しながら、さつさとリュックを降ろしかけた。鉢巻の男は何も云はないで、土間の腰掛に行つた。りよは、勢よく燃える火に、ほんのしばらくでもあたらせて貰ひたかつたので、「随分、歩いたンですけど、とつても寒くて……少し、あたらせて下さいませんでせうか?」とおづおづと云つてみた。「あゝいゝとも、そこンとこ閉めて、あたつて行きな」男は股の中へ小さい腰掛をはさみかけてゐたが、その腰掛をりよの方へやつて、自分はぐらぐらする荷箱の方へ腰をかけた。
 りよはリュックを土間の片隅に降ろして、遠慮さうに蹲踞んで、火のそばへ手をかざすと、「その腰掛へかけなよ」男は顎でしやくるやうに云つて、炎の向うにほてつてゐるりよを見た。なりふりかまはないかつかうではあつたが、案外色白い器量のいゝ女であつたので、「お前さん、行商に歩いてゐるのかい?」と訊いた。
 やかんの湯がちいんと鳴り出した。
 煤けた天井に、いやに大きい神棚がとりつけてあつて、青々としたさかきが供へてある。窓の下には黒板がぶらさげてあり、穴だらけのゴム長が一足、壁ぎはに置いてある。「この辺がいゝつて聞いたものですから、今朝早く来たンですけどね、一軒きりしか商売がなくて、もう、帰らうかと思つたンですけど、どこかで弁当でもつかはせて貰つて、と思ひましてね、そンなところを探して歩いてゐたンです……」「弁当はこゝでつかつて行けばいゝさ……商売つてものは、その日の運不運でね、もう少し、家のこんでるところでもまはれば、案外、またいゝ商売もあるかもしンねえよ」男は、歪んだ本箱のやうな棚から、黄いろくべとついた新聞包みを出して鮭の切身を出すと、やかんをおろして鉄棒の渡しへ乗せた。香ばしい匂ひがした。「さア、その腰掛へかけて、ゆつくり弁当…

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