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五月の唯物観
ごがつのゆいぶつかん
作品ID42162
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第二巻」 岩波書店
1997(平成9)年1月9日
初出「大阪朝日新聞」1935(昭和10)年5月
入力者Nana ohbe
校正者noriko saito
公開 / 更新2005-03-12 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 西洋では五月に林檎やリラの花が咲き乱れて一年中でいちばん美しい自然の姿が見られる地方が多いようである。しかし日本も東京辺では四月末から五月初めへかけて色々な花が一と通り咲いてしまって次の季節の花のシーズンに移るまでの間にちょっとした中休みの期間があるような気がする。少なくも自分の家の植物界ではそういうことになっているようである。
 四月も末近く、紫木蓮の花弁の居住いが何となくだらしがなくなると同時にはじめ目立たなかった青葉の方が次第に威勢がよくなって来るとその隣の赤椿の朝々の落花の数が多くなり、蘇枋の花房の枝の先に若葉がちょぼちょぼと散点して見え出す。すると霧島つつじが二、三日の間に爆発的に咲き揃う。少しおくれて、それまでは藤棚から干からびた何かの小動物の尻尾のように垂れていた花房が急に伸び開き簇生した莟が破れてあでやかな紫の雲を棚引かせる。そういう時によく武蔵野名物のから風が吹くことがあってせっかく咲きかけた藤の花を吹きちぎり、ついでに柔らかい銀杏の若葉を吹きむしることがあるが、不連続線の狂風が雨を呼んで干からびたむせっぽい風が収まると共に、穏やかにしめやかな雨がおとずれて来ると花も若葉も急に蘇生したように光彩を増して、人間の頭の中までも一時に洗われたように清々しくなる。そういう時に軒の雨垂れを聞きながら静かに浴槽に浸っている心持は、およそ他に比較するもののない閑寂で爽快なものである。そういう日が年のうちに一日あることもあり、ないこともあるような気がする。そうだとすると生命のあるうちにそういう稀有な日を出来るだけしみじみと味わっておかなければならない訳である。
 若かった時分には四月から五月にかけての若葉時が年中でいちばんいやな時候であった。理由のない不安と憂鬱の雰囲気のようなものが菖蒲や牡丹の花弁から醸され、鯉幟の翻る青葉の空に流れたなびくような気がしたものである。その代り秋風が立ち始めて黍の葉がかさかさ音を立てるころになると世の中が急に頼もしく明るくなる。従って一概に秋を悲しいものときめてしまった昔の歌人などの気持が自分にはさっぱり呑みこめなかったのであった。それが年を取るうちにいつの間にか自分の季節的情感がまるで反対になって、このごろでは初夏の若葉時が年中でいちばん気持のいい、勉強にも遊楽にも快適な季節になって来たようである。
 この著しい「転向」の原因は主に生理的なものらしい。試みに自分のあやしげな素人生理学の知識を基礎にして臆説を立ててみるとおおよそ次のようなことではないかと思う。
 われわれが格別の具体的事由なしに憂鬱になったり快活になったりする心情の変化はある特殊の内分泌ホルモンの分泌量に支配されるものではないかと思われる。それが過剰になると憂鬱になったり感傷的になったり怒りっぽくなったりするし、また、過少になると意気銷沈した不感の状態にな…

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