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技術と科学との概念
ぎじゅつとかがくとのがいねん
作品ID42192
著者戸坂 潤
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集 第一巻」 勁草書房
1966(昭和41)年5月25日
初出「帝国大学新聞」1941(昭和16)年6月9日号
入力者矢野正人
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-10-15 / 2014-09-18
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 要点だけをごく手短かに叙べねばならぬ。
 まず技術から始めよう。技術について最も間違いを少なくするには初めに之を物質的生産技術に限定して考えることが必要である。当分この限定を胸に置いた上で、技術の既成の概念に当って見ると、最も広く行なわれているのは何と云っても、「技術の哲学」という二十世紀特有な哲学による規定であろう。その重なものに共通する因子は、技術の世界をば自然界と精神界(観念界・道徳・人生・其の他の世界を含めて)との何等かの中間領域、第三王国、とすることである。
 ここですぐ様問題になるのは一体技術は一つの世界や一つの領域というものであろうかということだ。技術のこの存在性のカテゴリーについては、多くの技術哲学は殆んど無批判なのである。今仮に火というものを考えて見るのもいい。それが(古代ギリシアの自然論者風に云って)水でもなく土でもない、つまり海でもなく陸でもないから、之を第三の領域だとしたならば、少し話は妙にならないだろうか。少なくともそういう領域は地球上にはない抽象界であろう。又火の代りに熱でも持って来れば尚更である。処が技術が万一この火や熱のような本性のものであるとしたら困ったことになるだろう。
 技術の概念が、云わば動詞の名詞化のように実念論に陥るのを嫌って、もっと具象的な定形物と見たい処から、之を物に即して規定しようとしたのが、多少機械論的な唯物論(ブハーリンの如き)による技術の定義、「労働手段の社会的体系」である。多くの「唯物論者」がこの定義又はこの定義の省略された形(と云うのは「社会的」という規定をいつの間にか抜かして了った――かかる省略は定義としては不幸の始まりである)を用いたが、併し「労働手段の体系」はそれとして立派に学術用語としての独立性を持ったもので、技術という観念の代りをつとめるべき代用品でなかった。之は、技術そのものの省察によるよりも寧ろ、言葉や観念の一般的な性質に関する良識からして、初めから明らかであったと思う。(運転している)機械と設備と交通施設等々……の有機的組み合わせが、即ち技術であるというのは、原則的に云えば、鍬と鎌と鋤と……を並べれば即ち農業技術だというナンセンスである。体系といい社会的体系と云うが、そういうそれ自身不定なものは「定義」の役には立たない、のみならず、言葉自身によって決定される(即ち形式上)の定義は、抽象化された数字に於てしか許されないものだ。

 物では都合が悪いというので、例えば三枝博音氏などは(『日本技術史』)「過程としての手段」と規定した。之は物の代りに作用のような過程を導き入れた点に工夫を見せているが、併し単に手段というものにまで技術を一般化したので結局例の「技術の哲学」式の第三領域、目的論的世界へ逆もどりする。即ち「限界領域」と氏自ら称するのである。技術を物説と過程説との折衷によって捉えよ…

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