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作品ID | 42221 |
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著者 | 寺田 寅彦 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「寺田寅彦全集 第三巻」 岩波書店 1997(平成9)年2月5日 |
初出 | 「明星」1927(昭和2)年1月 |
入力者 | Nana ohbe |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2004-09-12 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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一
連句で附句をする妙趣は自己を捨てて自己を活かし他を活かす事にあると思う。前句の世界へすっかり身を沈めてその底から何物かを握んで浮上がって来るとそこに自分自身の世界が開けている。
前句の表面に現われただけのものから得た聯想に執着してはいい附句は出来ない。
前句がそれ自身には平凡でも附句がいいと前句がぐっと活きて引立って来る。どんな平凡な句でもその奥底には色々ないいものの可能性が含まれている。それを握んで明るみへ引出して展開させるとそこからまた次に来る世界の胚子が生れる。
それをするにはやはり前句に対する同情がなければ出来ない。どんな句にでも、云い換えるとどんな「人間」にでも同情し得るだけの心の広さがなくてはいい俳諧は出来ない。
二
九月二十四日の暴風雨に庭の桜の樹が一本折れた。今年の春、勝手口にあった藤を移植して桜にからませた、その葉が大変に茂っていたので、これに当たる風の力が過大になって、細い樹幹の弾力では持ち切れなくなったものと思われる。
これで見ても樹木などの枝葉の量と樹幹の大きさとが、いかによく釣合が取れて、無駄がなく出来ているかが分る。それを人間がいい加減な無理をするものだから、少しの嵐にでも折れてしまうのである。
三
いわゆる頭脳のいい人はどうも研究家や思索家にはなれないらしい。むつかしい事がすぐに分るものだから、つい分らない事までも分ったつもりになってしまうようである。
頭の悪いものは、分りやすい事でも分りにくい代りにまたほんとうに分らない事を分らせ得る可能性をも有っているようである。
この事が哲学やその他文科方面の研究思索について真実である事はむしろよく知られた事であると思うが、理化学の方面でもやはりそうだという事はあまりよく知られていないようである。
四
ストウピンのセロの演奏を聞いた。近来にない面白い音楽を聞いた。
われわれ素人の楽器を弄するのは、云わば、楽譜の中から切れ切れの音を拾い出しては楽器にこすりつけ、たたきつけているようなもので、これは問題にならない。しかし相当な音楽家と云われる人の演奏でも、どうもただ楽器から美しい旋律や和絃を引出しているというだけの感じしかしない場合が多いようである。こういう演奏には、感心はしても、感動し酔わされる事はない。いつでも楽器というものの意識が離れ得ない。
ストウピンがセロを弾いているのを聞いており見ていると、いつの間にか楽器が消えてしまう。演奏者の胸の中に鳴っている音楽が、きわめて自由に何の障害もなく流れ出しているので、楽器はただほんの一つの窓のようなものに過ぎないのである。
五
ヴィオリンをやっていて、始めてセロを手にしてみると、楽器の大きさを感じるのはもちろん…