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なつ
作品ID42230
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第三巻」 岩波書店
1997(平成9)年2月5日
初出「大阪朝日新聞」1929(昭和4)年7月
入力者Nana ohbe
校正者noriko saito
公開 / 更新2004-09-14 / 2014-09-18
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

      一 デパートの夏の午後

 街路のアスファルトの表面の温度が華氏の百度を越すような日の午後に大百貨店の中を歩いていると、私はドビュシーの「フォーヌの午後」を思いだす。一面に陳列された商品がさき盛った野の花のように見え、天井に回るファンの羽ばたきとうなりが蜜蜂を思わせ、行交う人々が鹿のように鳥のようにまたニンフのように思われてくるのである。あらゆる人間的なるものが、暑さのために蒸発してしまって、夢のようなおとぎ話の世界が残っているという気がするのである。この夢の世界を逍遥している幾千人かのうちの幾プロセントかはまたおそらく単にこのフォーヌの夢を見るだけの目的で、あてもなく彷徨しているかもしれない。こういう意味でデパートメントストアは一つの公園であり民衆の散歩場である。そうして同時に博物館であり、百科辞典であり、また一種のユニヴァーシティであるのである。そうしてそれがそうであることによって、それは現代世相の索引でありまた縮図ともなっているのである。
 食堂や写真部はもちろん、理髪店、ツーリスト・ビュロー、何でもある。近頃郵便局の出来たところもある。職業紹介所と結婚媒介所はいまだないようであるが、そのうちに出来てもよさそうなものである。今でも見合いのランデヴーには毎日のように利用されているくらいである。球戯場などもあっても差支えはない。
 しかし百貨店の可能性がまだどれほど残されているかは未知数である。その一つの可能性として考えられるものは、軽便で安価な「知識の即売」である。法医工文理農あらゆる学問の小売部を設けることである。
 親類に民事上の訴訟問題でも起りかかった場合に、われわれはある具体的の法律上の知識の概要を得ておきたくなる。そういう時に、もし百貨店で買物をした節に十分か十五分の時間と二円か三円の金を費やして要領を得ることが出来れば便利である。
 わざわざ医者にかかるほどでもないちょっとしたできものを診てもらって適当な療法を教わったり、また病気であるかないか分らないようなからだの工合を話して意見を聞くようなことが、あたかも鉛筆一本、ハンケチ一枚買うように気軽に出来れば便利である。
 家を建てようと思う人が自分の素人設計図を見せてまずい所を直してもらったり、ちょっとした器械でも買う場合に目的を話して適当なものを選定してもらわれれば好都合である。メロンを作ってみたいと思う人が自分の畑の適否を相談し、栽培法の要領を教われれば軽便である。
 もう少し実用を離れた知識でもわれわれは時に自分の畑違いの事で一通りのことを心得ておきたい場合がある。書物を読めばいいとしたところで第一どういう本を読んでいいのかそれが分らない。そういう場合にもし百貨店で買物の節に軽便安直な知識を購入出来れば工合がいい。たとえば相対性原理とはどんな事か、マルキシズムとは何か、バロック…

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