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うみ
作品ID42363
著者太宰 治
文字遣い新字新仮名
底本 「もの思う葦」 新潮文庫、新潮社
1980(昭和55)年9月25日
入力者蒋龍
校正者今井忠夫
公開 / 更新2004-07-08 / 2014-09-18
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 東京の三鷹の家にいた頃は、毎日のように近所に爆弾が落ちて、私は死んだってかまわないが、しかしこの子の頭上に爆弾が落ちたら、この子はとうとう、海というものを一度も見ずに死んでしまうのだと思うと、つらい気がした。私は津軽平野のまんなかに生れたので、海を見ることがおそく、十歳くらいの時に、はじめて海を見たのである。そうして、その時の大興奮は、いまでも、私の最も貴重な思い出の一つになっているのである。この子にも、いちど海を見せてやりたい。
 子供は女の子で五歳である。やがて、三鷹の家は爆弾でこわされたが、家の者は誰も傷を負わなかった。私たちは妻の里の甲府市へ移った。しかし、まもなく甲府市も敵機に襲われ、私たちのいる家は全焼した。しかし、戦いは尚つづく。いよいよ、私の生れた土地へ妻子を連れて行くより他は無い。そこが最後の死場所である。私たちは甲府から、津軽の生家に向って出発した。三昼夜かかって、やっと秋田県の東能代までたどりつき、そこから五能線に乗り換えて、少しほっとした。
「海は、海の見えるのは、どちら側です。」
 私はまず車掌に尋ねる。この線は海岸のすぐ近くを通っているのである。私たちは、海の見える側に坐った。
「海が見えるよ。もうすぐ見えるよ。浦島太郎さんの海が見えるよ。」
 私ひとり、何かと騒いでいる。
「ほら! 海だ。ごらん、海だよ、ああ、海だ。ね、大きいだろう、ね、海だよ。」
 とうとうこの子にも、海を見せてやる事が出来たのである。
「川だわねえ、お母さん。」と子供は平気である。
「川?」私は愕然とした。
「ああ、川。」妻は半分眠りながら答える。
「川じゃないよ。海だよ。てんで、まるで、違うじゃないか! 川だなんて、ひどいじゃないか。」
 実につまらない思いで、私ひとり、黄昏の海を眺める。



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