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![]() おんじん |
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作品ID | 42390 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第一巻(小説Ⅰ)」 未来社 1967(昭和42)年6月20日 |
初出 | 「帝国文学」1914(大正3)年5月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2008-10-10 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 27 ページ(500字/頁で計算) |
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年毎に彼の身体に悪影響を伝える初春の季節が過ぎ去った後、彼はまた静かなる書斎の生活をはじめた、去ってゆく時の足跡をじっと見守っているような心地をし乍ら。木蓮の花が散って、燕が飛び廻るのを見守っては、只悠久なるものの影をのみ追った。然しその影の淡々しいのを彼の心が見た。
前日からの風が夜のうちに止んで、朗らかな朝日の影が次第に移っていった。その時女中が一封の信書を彼の書斎に届けた。裏を返すと彼の心は一瞬の間緊縮された。手紙は京都の若い叔父からであった。彼は暫く眼を空間に定めて、それから封を切ってみた。断片的な簡短なる文句が続いている。
一度御地の旧物を訪わんと存候えど、閑暇――閑暇はあり乍ら心臆して未だその期を得ざるままに日を暮し候。その後出京の念漸く成りて本夕出発、明日は多分御面接を得ることと存候。御新棲の有様も伺いたくと存候えば……。
それから又こんな文句もあった。
但し此度は微行に候、微行とは誇言なれど、此度の出京は君等の外誰も知る者なしとの意に候。然しそは特別の用件あるが故には候わず。ただ一泊の訪問なるを予め御報申さんが為に候……。
其処を彼はくり返して読んでみた。そして手紙はこう結んであった。
突然のことにて御喫驚も有之らんかなれどそれも面白かる可しと存候。此の手紙は今日午前投函する筈なれば、小生の到着前に御手に届くことと存候。自身は今夕夜行にて出発する筈に候。但し本日の夕陽に明日の快晴を思わするものあらばとの条件を附加し候、さらば。
彼の心に不可解なものが醸された。それで幾度もくり返し読んでは、叔父の本意を探らんとした。然し彼の眼に留ったものは以上の文句に過ぎなかった。彼はまた丁寧に手紙を巻き納めて、それから卓を離れてソファアの上に身を投げた。
愛妻を失って憂愁の生活をしている痩せた叔父の姿が彼の頭に映った。それからたえ子を恋した叔父、彼とたえ子との恋を聞いて二人の間を纒めてくれた叔父、間もなく自ら京都に職を求めて去った叔父、好める植物の研究に余暇を捧げて、老婢と佗びしい暮しをしている叔父、――過ぎ去った二年の歳月が、彼の前にそういう別々の叔父の姿を幾つも見せてくれた。遠い絵巻物をでも見るような落ち着いた心地で彼はそれを見た。然し今、書信の往復も間遠になった折のこの突然の来意の手紙が、彼の心に妙な悲壮な気の暗示を与えた。叔父はまだたえ子の姿を心の奥に秘めているのではないだろうか、と彼は思った。
然し彼が見たのは何故? との問題ではなかった。どうにかしなければならない、とそう思った。そして彼の前に広い空間が拡がった。その中に叔父が居る、彼自身が居る、そして妻のたえ子が居る。
彼は立ち上って、手紙を持ったまま妻の室に行った。彼女は手娯みの刺繍をやっていた。夫の姿を見てその顔を見守った。その眼が「何か御用?」とこう云った。
彼は妻の傍に坐…