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![]() ふたつのみち |
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作品ID | 42405 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第一巻(小説Ⅰ)」 未来社 1967(昭和42)年6月20日 |
初出 | 「新小説」1920(大正9)年5月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2008-10-02 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 104 ページ(500字/頁で計算) |
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一
看護婦は湯にはいりに出かけた。
岡部啓介はじっと眼を閉じていた。そして心の中で、信子の一挙一動を追っていた。――彼女は室の中を一通り見渡した。然し何も彼女の手を煩わすものはなかった。火鉢の火はよく熾っていた。その上に掛ってる洗面器からは盛んに湯気が立っていた。床の間にのせられてる机の上には、真白な布巾の下に薬瓶が並んでいた。机の横には、吸入器や紙や脱脂綿や其他のものがとりまとめて置いてあった。草花の鉢の土も適度に湿っていた。終りに彼女は、病人の額にのせられてる氷嚢にそっと触ってみた。指先に冷りとした感触を受くると同時に、氷の塊りが触れ合う軽い音がした。彼女はあわてて手を引込めた。それから枕頭の硝子の痰吐を覗いた。円く塊まって浮いている痰の中に、糸を引いたような血の条が交っていた。
彼女が眼を挙げると、彼女の顔を見つめている啓介の大きな眼に出逢った。
「あら、眠っていらしたんじゃないの?」
「いや。」と啓介は答えた。
「先刻から?」
啓介は首肯いた。
「看護婦さんが出かける時から?」
啓介はまた首肯いた。それからこう云い出した。
「あの看護婦は実に現金だね。僕の容態が少しよくなると、看護服をぬいで普通の着物ばかり着ているが、また容態が悪くなると、看護服を着出すからね。この一週間許りは看護服ばかり着ている。」
信子は庭の方へ眼を外した。縁側の障子にはまってる硝子で四角に切り取られた庭は、陰欝に曇った寒空の下に荒凉としていた。雪と霜とに痛んで枯れはてている芝生の間には、湿気を帯びた真黒な土が処々に覗き出していた。
「お前は、」と啓介は云った、「泣いてるね。」
「いいえ。」と信子は答えた。そして鼻を一つすすって、彼の方を振り向いた。
「では眼を大きく開けてごらん。」
彼女はちらと微笑の影を口元に浮べて、眼を大きく見開いた。すると急に、眼の底が熱くなって、大粒の涙がはらはらと溢れ落ちた。彼女は其処につっ伏してしまった。
「そら泣いてるじゃないか。」
彼女は肩を震わしていた。あたりは静かだった。
「もう泣かなくてもいい。」と啓介はやがて云った。「僕が悪かった。許してくれ。僕は時々妙な気持に囚えられる。それは日が陰ってくるような気持ちだ。今迄明るかったものが、急に陰欝になってくる。凡てが頼りなく淋しく思われてくる。すると、自分を思い切って呵責みたいような、また一方では何かに縋りつきたいような、訳の分らない感情に巻き込まれてしまう。腹を立ててるのか悲しんでるのか、自分でも分らない。多分その両方だろう。お前が一人でじっと坐っているのを見ると、お前を泣かしてみたいような……そら、僕達はよく二人で、夕方なんか黙って庭に眼を落しながら、心では暮れてゆく淋しい空を眺めて、いつまでもじっとしていたことがあったろう。しまいにお前は、いつのまにか涙を流していたね。………