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作品ID | 42415 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第二巻(小説Ⅱ)」 未来社 1965(昭和40)年12月15日 |
初出 | 「中央公論」1923(大正12)年1月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2006-07-12 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 39 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「奇体な名前もあるもんですなあ……慾張った名前じゃありませんか。」
電車が坂道のカーヴを通り過ぎて、車輪の軋り呻く響きが一寸静まった途端に、そういう言葉がはっきりと聞えた。両腕を胸に組んで寒そうに――実際夕方から急に冷々としてきた晩だった――肩をすぼめていた佐伯昌作は、取留めのない夢想の中からふと眼を挙げて見ると、印半纏を着た老人の日焼した顔が、髭を剃り込んだ[#挿絵]をつき出し加減にして、彼の横から斜上の方を指し示していた。其処には、車掌と運転手と二つ並んだ名札の一つに、木和田五重五郎という名前が読まれた。
「私はこれで日本六十余州を歩き廻ったですが、こういう名前に出逢ったなあ初めてでさあ。ゴジューゴロー……何とか読み方があるんでしょうが……慾張った名前ですな。私は七十になりますがね……。」
そのいやに固執した「慾張った」のすぐ後へ、七十という年齢が突拍子もなく飛出したので、昌作は知らず識らず笑顔をした。
「八十八という名前もあるじゃないか。」
「そいつあ世間にいくらもありまさあ、ヤソハチというんでね。」
「もっと上にゆくと、八百八というのがあるよ。」
「へえ? 八百八。」
「そら、伊予の松山の八百八狸って有名な奴さ。」
「へえー、なるほど……。」
日本六十余州を跨にかけたというその老人は、ただ口先だけで感心しながら、分ったのか分らないのか何れとも知れない顔付で、なお木和田五重五郎の名札を眺めていた。向う側にずらりと並んでいる無関心な男女の顔の二三に、薄らとした微笑が浮んだ。
「何とか読み方がありましょうね。まさかゴジューゴローじゃあ……ちょいと通用しぬくかあねえかな。」と云って老人は首を振った。「何せえ慾張った名前ですな。」
日焦けのした顔の皮膚がいやに厚ぼったくて、酔ってるのか素面なのか見当がつかなかった。昌作はぼんやりその顔を見つめた。と俄に、ぎいーとブレーキが利いて電車が止った。入口に先刻から素知らぬ風で向う向きに立っていた車掌が、大声に停留場の名を呼んだ。昌作は急な停車にのめりかけた腰をそのままに立ち上って、「失敬、」と口の中で云い捨てながら、慌てて電車を降りた。
――そうしたことが、いつもなら佐伯昌作の愉快な気分を唆る筈なのに、今は却って、寂寥と云おうか焦燥と云おうか、兎に角或る漠然たる憂鬱を齎したのである。九州の炭坑のことと橋本沢子のことが、同じ重さで天秤の両方にぶら下っていた。一寸した心の持ちようで、その何れかがぴんとはね飛ばされることは分っていた。それが恐しかった。自分の心の持ちようによってではなく、どうにもならない実際上の事柄によって、何れかに勝利を得させたかった。
先ず九州の炭坑から……そして次に橋本沢子。
そういう決心が、「木和田五重五郎」のことで妙に沈み込みがちになるのを、彼は強いて引き立てて、片山禎…