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裸木
はだかぎ |
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作品ID | 42445 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社 1966(昭和41)年8月10日 |
初出 | 「新潮」1926(大正15)年9月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2008-03-10 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 33 ページ(500字/頁で計算) |
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佐野陽吉には、月に一度か二度、彼の所謂「快活の発作」なるものが起った。
初めはただ、もやもやっとした、煙のような、薄濁りのした気分……。それが次第に濃くどんよりと、身内に淀んできて、二つの異った作用を起した。一つは、頭脳がひどく鈍ってきた。一種の毒気みたいなものが、頭の中に立罩めて、こみ入ったことは考えられなくなり、細かなことは感じられなくなり、あらゆる陰影や色合が失せて、変に露骨になるのだった。丁度白昼の薄曇りに似ていた。それからも一つは、肉体が急に精気づいてきた。血量がふえて、過剰になって、睥肉の歎に堪えないという風に、何かしら激しい労働でもしてみたくなるのだった。そしてその別々な二つの作用が、或る時期にぴたりと一つのものにまとまる。と、彼はにやにやと不気味な薄ら笑いを洩した……。そういう状態を、彼は自ら、人間性の獣化と考えるのであった。
人間性の獣化ということは、必ずしも不名誉なことでも不愉快なことでもない。否それは却って、佐野陽吉にとっては、愉快な生々とした時間だった。世間体とか気兼とか矜持とか、そういった事柄から一歩外に踏み出したものだった。そして彼は、媚びを売る女達のなまめかしい姿態と香りを眼前に浮べて、想像の中であれこれと選択をした。
――今日出かけて行こう。
ぴょんと踊りはねるような気持で、彼は敏子の方へやっていった。彼女の側には、生れて百五十日ほどになる赤ん坊が、母衣蚊帳の中にすやすや眠っていた。彼はその蚊帳の中へ、腹ん匍いになって頭だけをつき込んで、幼児の柔かい頬辺を、指先でちょいとつついてみた。
「あら、いけませんよ。今眠ったばかりじゃありませんか。」
「はははは、眠ってるな。」
その大きな笑い声になお喫驚して、眉根に小皺を寄せて、子供の方を覗き込んでる敏子の顔を、彼ははね起きながら眺めやった。
敏子の眉根が、やがてゆるんで、子供の寝顔の反射のように、無心の笑みが頬に上ってきた。と一緒に、彼もにこにこと微笑んだ。
「子供の寝顔っていいもんだなあ、」と咄嗟に、出たらめに、
「まるで海みたいなものだ。」
「え、海……。」
「海が見たくなっちゃった。」
「じゃあ見にいらっしゃいよ。」
「そうだな、今から行って来ようか。だが……。」
「なあに……。」
「まだ暑いし、……。」
「だから、海は涼しくていいんじゃありませんか。」
「そうかしら……。一緒に行こうか。」
「わたし?」睨むような甘えた眼付だった。「行けないことが分ってるものだから……。」
「なぜだい。」
「坊やをどうするの。」
「ああ、子供か。」
「嫌な人ね、白ばっくれて……。行っていらっしゃいよ。」
「うむ……だが、赤ん坊の顔を見てるのもいいようだし……。」
「まあー……。」
赤ん坊は余り好かないと云って、抱きかかえることも少い彼だった。その平素の不満がちらと敏子の眼に閃…