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溺るるもの
おぼるるもの
作品ID42448
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社
1966(昭和41)年8月10日
初出「中央公論」1928(昭和3)年4月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-03-10 / 2014-09-21
長さの目安約 36 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一 或る図書館員の話

 掘割の橋のたもとで、いつも自動車を乗り捨てた。
 眼の届く限り真直な疏水堀で、両岸に道が通じ、所々に橋があって、黒ずんだ木の欄干が水の上に重り合って見える。右側は大きな陰欝な工場、左側は小さな粗末な軒並……。その軒並の彼方、ぼうっとして明るみの底、入り組んだ小路の奥に、燐光を放ってる一点があった――彼女がいた。
 燐光……そんな風に私は彼女を感じた。
 彼女は眼が悪かった。軽い斜視で、その上視力が鈍っていた。十六七の時に急に悪くなったのだという。兄は盲目だそうだ。遺伝性黴毒からきた黒内障ではないかと私は思った。が彼女は角膜炎だと云った。そして近眼で乱視だと……。近視十五度の私の眼鏡をかけて、よく見えるとて喜んだ。
「眼鏡を一つ持ってたけれど、転んで壊しちゃって……それきりよ。眼医者に行くと、長く通わなけりゃならないから……。」
 その眼が、黒目も白眼も美しかった。眉墨で刷いた細い長い眉の下、くっきりとした二重眼瞼の方へ黒目を寄せて上目がちに、鏡の中を覗きこみながら、寝乱れた鬢の毛をかき上げてる、軽い斜視の乏しい視力の眼付と真白な細面の顔とを、傍から鏡の中に眺めるのを私は好んだ。
「また……いやよ。悪口云おうと思って……。」
 鏡台を押しやって彼女は笑った。
 淋しい静かな笑いを彼女は持っていた。薄い眉と二重眼瞼と細そり高い鼻とはそのままに、少しつき出し加減の薄い唇を中心としてる線のなだらかな細面の下半分に浮べる、その淋しい静かな笑いには、気心を置かない時には、或る哀切な弱々しさが加わり、会った初めに、「いらっしゃい。」と形ばかりの挨拶の後の時には、或る一本気な強さが加わった。
 後になって、その笑みが彼女の眼にまで拡がってきた時、私は何だかそれに応じて微笑めないようなものを感じた。
 そうした彼女の方へ足繁く通いながら、掘割の縁で、私は幾度か夢想に沈んだ。
 掘割の水はいつも濁っていた。水面まで泥深く油ぎって、どんよりと湛えていた。濁った水というよりも、一種の溶解液だった。あらゆるものが、混入しているのではなく溶けこんで、腐敗醗酵のも一歩先に出ていた。その重々しい表面はゆるぎもなく、昼間は太陽の光を吸いこみ、夜分は街燈の光をはね返していた。
 あちこちに、一二艘の荷足舟がもやっていた。けれども私は嘗て、その舟の動いてるのを見たこともなければ、舟の中に人影を認めたこともない。中程に何か積んで蓆を被せられて、流れのない汚水の上に舟縁低く繋ぎ捨てられている。それでも時々位置は変っていた。
 赤煉瓦と亜鉛板とで出来てる荒々しい幾棟かの工場が、掘割の上に大きな影を落していた。煙筒からは煙が出てるが、建物は静まり返っていた。機械の音も職工等の気配も、その内部で窒息してしまってるかのようで、永遠に休業して立朽れしてるのか、或い死の工場で…

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