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作品ID | 42455 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社 1966(昭和41)年8月10日 |
初出 | 「経済往来」1933(昭和8)年11月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2008-04-22 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 35 ページ(500字/頁で計算) |
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その朝、女中はいつもより遅く眼をさまして、本能的に遅いのを知ると、あわててとび起きた。いつもは、側にねているおしげが、眼ざまし時計のように正確に起上って、彼女を呼びさますのだったが、そのおしげの床が空っぽだった。それだけのことに彼女は変に心打たれ、いちどにはっきり眼をさまし、急いで寝間着を着かえ、帯を結びながら台所へやっていった。電気をつけると、そこの……旧式の台所で、板敷のところから一段ひくくなってる洗い場の前の置板の上に、おしげが、白い浴衣地の寝間着のまま横倒しに蹲っていた。「まあ……。」つかつかと歩みよって、ばあやさん……と言葉は喉の奥だけで、肩に手をかけた、とたんに、彼女ははっと、身を退いた。そしてまた覗きこんで、両手でゆさぶった時、おしげの身体は凍りついた枯木同様だった。
声を立てたか立てなかったか、それも彼女は自分では覚えず、奥の室に馳けていって、主人夫婦を呼起した。
島村がおしげの身体をしらべた。病身な細君は――まだ生きてた頃のことで――真蒼な顔をして棒のようにつっ立っていた。その後ろに、若い女中は屈みこんで震えていた。おしげは片方の眼を白目にうち開き、両手をつっ張り、膝を痙攣的に折曲げて、横倒しになっていた。頭の近くにバケツがひっくり返って、恐らく水が一杯はいっていたものだろう。彼女の髪と肩とを濡らしていた。外傷はなく、中毒の模様もなく、台所の雨戸はしまっていた。島村は死体の眼瞼をなでて閉してやった。それから、タオルと叫んだ。女中がもってきた新らしいタオルで、濡れた髪と肩とを拭いてやった。
「手をかしてくれ。寝かしてやろう。」
その時、女中が急にわっと泣き出した。そして声をかみしめ、涙をぽたぽたこぼしながら、抱きつくように死体の足にすがった。島村は肩の方をかかえた。軽かった。女中部屋の布団に死体は長々と薄べったく寝かされた。
「しばらく、子供たちが起きないように、たのむよ。」と島村は云った。
細君は血の気を失い、蝋のような顔をして、眼にためてる涙だけが生々と輝いていた。島村は電話口へいった。
晩春の白々しい夜明の光が、欄間の硝子戸から、電燈の明るみの中にさしこんでいた。
島村と懇意な田中医学博士が、急報をきいてすぐに来てくれた。おしげは死後四五時間経過したらしく、策の施しようがなかった。死因に怪しい点はなかったが、家族ではなく、急死なので、一応警察医の立会も求めることになった。既往症は動脈硬化、脳溢血による急死……。恐らく夜中に軽い苦悶を覚えて、水を飲みに立っていった時、急激な脳溢血で倒れたものであろう。もう六十歳になっていた。「死因は明かだが、そうした脳溢血を招いた間接の原因が何かあるかも知れない……、」と田中は島村に囁いた。彼女の縁故としては、東京には本所で小さな折箱屋をやってる遠縁の者と、下谷で芸奴になってる姪の娘きりだっ…