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椎の木
しいのき |
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作品ID | 42458 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ」 未来社 1966(昭和41)年8月10日 |
初出 | 「経済往来」1934(昭和9)年2月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2009-02-01 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 53 ページ(500字/頁で計算) |
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一
牧野良一は、奥日光の旅から帰ると、ゆっくり四五日かかって、書信の整理をしたり、勉強のプランをたてたりして、それから、まっさきに、川村さんを訪れてみた。
川村さんはもう五十近い年頃で、妻も子もなく、独りで老婢をやとって暮していた。学者だが、何が専門で何が本職だか分らなかった。書斎にはいろんな書物がぎっしり並んでおり、雑誌や新聞に詩や批評や随筆などいろいろなものを書き、私立大学に少しばかり勤めていた。ひどく真面目なところと出たらめなところとがあった。その川村さんを、良一は尊敬もし好きであった。自分の遠縁にあたるのが自慢だった。
風のない薄曇りの日で、雪にでもなりそうな底冷があった。良一はマントの襟を立てて、川村さんの家へ急いだ。
老婢が出て来た。暫く考えてから答えた。
「いま、お留守ですよ。あとで電話をかけてごらんなさい。」
この婆や、いつもとぼけた奴だが、留守なのにあとで電話をしろとはおかしかった。だが、良一はそのまま、暫く外を歩き、それから見当り次第の喫茶店にはいり、時間をつぶして、電話をかけて見た。すぐに来てよろしいとの返事だった。
行ってみると、川村さんは熱をだして寝ていた。痩せた頬に髭がもじゃもじゃはえていた。
「おうちだったんですね。留守だというんで、時間をつぶすのに困りました。」
良一が不平そうに云うのを、川村さんはほほえんできいていた。
「うむ、誰にでも、留守だから電話をしろと、そういうことになってるんだ。面倒くさい者には会わないことにしてるものだから……。」
良一は苦笑した。――元来、川村さんは電話がきらいで、こんな不都合なものはないと不平を云っていた。戸締りをしておいても、夜遅くでも、電話というやつは、いきなりりりんととびこんできて、話しかける。家の中を往来と同じものにするというのだった。そんな嫌なものならやめたらいいでしょう、というと、それでも使いようによっては人間以上に役にたつ、というのだった。病気の時なんかうまく使ってるというわけなのであろう。
そこへ若い女が茶をくんできた。一度も見たことのない女で、それも、普通の女ではなさそうだった。洋髪に結った髪がばかに綺麗にさらっとカールしていて、黒襟のかかったはでなお召の着物をきていた。襟頸がすっきりとぬけて、顔の皮膚が不自然になめらかだった。木の葉にちらつく日の光のようなものが眼の中にあって、それが淡い香水のにおいといっしょに、良一の方へおそってきた。
女が出てゆく後ろ姿を、良一がけげんそうに見送っていると、川村さんは事もなげに云うのだった。
「ちょっと、手伝いに来てる女だよ。」
「ひどくお悪いんですか。」
「なあに、心配して来てくれてるんだが、ただの感冒だ。熱が少し。九度五分ばかりあるきりで、それも、すぐにさがる筈だ。」
ただの水枕きりで、氷もあててなか…