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肉体
にくたい
作品ID42463
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社
1966(昭和41)年8月10日
初出「文芸」1935(昭和10)年10月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-06-05 / 2014-09-21
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「なんだか……憂欝そうですね。」
 さりげなく云われたそういう言葉に、私はふっと、白けきった気持になって、酒の酔もさめて、自分の顔付が頭の中に映ってくることがあります……。私が鏡を見るのは、髯をそる時、髪をなでつける時、まあそんなものですが、それよりももっとはっきりした鏡が頭の中にあって、それに自分の顔付が映ってきます。――頬は酒の酔に赤くほてっているのに、額に薄暗い影がかかっていて、眼尻にいくつも小皺がより、厚い唇がだらしなく開き、そして眼付が、物珍らしそうにきょろきょろあたりを見廻したり、またぼんやり曇ったりします。その全体が……そう……やはり憂欝そうですね。……以前はこんなじゃありませんでした。ついこの頃のことです。
 負けた……一言で云えばそういう気持です。しかも、それがばかげていて、どうもやりきれません。
 はじめのうちは、私は気にもとめませんでした。万事がすらすらと運んで、聊か得意だったほどです。
 たしか……同業者仲間の宴会で、ぱっと、はでな一座……というほどじゃありませんが、まあ気持はそうで、飲む、食う、歌う……じゃんじゃんやっていますなかに、ちょっと、私の眼についた妓がいました。二十一二の、丁度年頃で、背は低いが――私だってこの通り背は低い方ですからね――何の屈託もなさそうな、朗かな、よく笑う女で、それでいて何だかおっとりとしています。額のせまい、丸顔のたちで、美しくはありませんが、歯がきれいで、そして何よりも、眼が……黒目のうわずった、見つめると近視か乱視めいた愛嬌をつくって、変に妖しい色をおびてきます……。人間、うっかりしていますと、妙なところに心を惹かれることがあるものですよ。
 それが、忘れかねる……というほどじゃあありませんでしたが、つい、その、足が向きましてね、三度四度と呼んでるうちに、気持も親しくなるし、ただ逢ってるだけじゃあつまらなくなり、それに何よりも、これ以上親しくなったらもうあがきがとれなくなる、今が丁度潮時だと、そんな気持が一番多く働いて、ある時、酔ったまぎれに、そこの仲居にそれとなく探りを入れてみると、大丈夫ですよ、とは云うものの、本人の気も引いてみたくなりましてね……。
「ああ酔っちゃった、今晩泊っていってもいいかしら……。」とまるで他人事のようでした。
「ええ、いいわ。」
 至極簡単に、あっけなく片附けられてしまったものです。そしてその晩、万事が、やはり、至極簡単にあっけなく……。
 妙なもんでして、こっちの気をもたせるような、何かこう少しでも愛想を示されたら、私もそれきり忘れたかも知れませんが、あまりあっさりとやられたものですから、却って心残りがして、それがきっかけで、度々通うようになりました。そして度重るにつれて、私の心は、ぬるま湯にでもつかるように、彼女に囚われていきました。全く、ぬるま湯でした。彼女は何…

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