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南さんの恋人
みなみさんのこいびと |
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作品ID | 42465 |
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副題 | ――「小悪魔の記録」―― ――「こあくまのきろく」―― |
著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社 1966(昭和41)年8月10日 |
初出 | 「中央公論」1936(昭和11)年4月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2008-05-30 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 36 ページ(500字/頁で計算) |
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一
少しいたずら過ぎたかな? だが、まあいいや。
その朝、室の有様は、おれの気に入った。
窓に引かれてる白いカーテンを通して、曇り日らしい薄明りが空の中に湛え、テーブルの上のスタンドの電燈が、いやにぼんやりしていた。殆んど何の装飾もない白いだだ広い室……。窓寄りのベットに、南さんが、顔まで毛布をかぶり、長髪を枕の上に乱して、死人のように眠っていた。テーブルのスタンドのわきには、帽子、カラー、ネクタイ、紙入、時計、大きな木札のついた鍵……。中央の円卓には、ビール瓶が二本、一本はからで、一本は栓もぬいてなく、コップ二つ、リキュールのグラスが二つ。それから扉寄りに、も一つベットがあって、寝具は少しも乱されてないが、その上に、南さんの服装が、外套からシャツや腹巻まですっかり、とりちらされていた。腹立ちまぎれに自分で脱ぎすてたものか、或は、急病の手当に誰かが脱がして投げ出したものか、そういった有様で、片隅の衣裳戸棚はまるで忘れられていた。それから、南さんの服装のわきに、ベットの裾の方に、くしゃくしゃなタオルの寝間着が一枚、無雑作に放りだしてあった。それが全体の有様から見て、つまりこの室は、宿泊されたのではなく、寝られたに過ぎないのだ。
十一時頃、南さんが突然起きあがった。ベットがゆらりと動いた。身体に不馴れなその動揺とシーツの感触とで、南さんは初めて正気に返ったらしく、室の中を見廻した。血のけのうすい膨れた顔をしている。暫くして、彼はのこのこベットからおりてきた。寝間着の前がはだけてるのに気がついて、紐をむすんだ。しきりに頭をかしげながら、室の中を一通り見調べた。それから窓のカーテンをかかげて、外を眺めた。
果して、曇り日のどんよりとした昼だった。すかし見ると、ばかに高い……。あちこちに、高層建築の頂が聳えていて、その間を垂直にえぐり取った深い深い谷底に、軌道が見える。電車が通る。自動車や自転車……豆粒のような人間……。冷々とした空気が、悪気流が、宙に迷っていた。
暫く眺めていた南さんは――あぶない、とおれが囁いてやったからばかりではなく――ぞっと身体中震えて、窓から離れた。時計をちょっと覗いてまたベットにもぐりこみ、横向きに、手足を縮こめ、眼を閉じた。頭を深々と枕に埋めてる様子では、眠ったようだったが……思いもよらない時に、両方の眼瞼から涙が一滴ずつ、すうっと流れおちた。雨滴が木の葉をすべるような、少しの無理もない流れ方だった。それからやがて、彼はうとうとと眠ってしまった。
一時頃、南さんはほんとに起きあがった。こんどは、眉をしかめ、ひどく不機嫌そうな顔付だ。宿酔のせいもあったのだろう。彼は室の中を少し歩き廻り、冷い水で顔をごしごし洗い、面倒くさそうに洋服に着かえ、窓のカーテンをひきあけ、円卓に片肱をつき、ビールをのみまた煙草をふかしながら…