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潮風
しおかぜ
作品ID42467
副題――「小悪魔の記録」――
――「こあくまのきろく」――
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社
1966(昭和41)年8月10日
初出「中央公論」1937(昭和12)年5月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-05-30 / 2014-09-21
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 棚の上に、支那の陶器の花瓶があった。いつも使われることがないので、俺はその中に綿をもちこんで、安楽な居場所を拵えておいた。その晩も、夜遅く、その中にはいってうとうとしていると、急に何か物音や人声がしたので、花瓶の口からのび上って、見ると、片野さんがとびこんできてるのだった。
 片野さんは酔っていた。一つ所に立ってることが出来ず、それかって椅子に掛けるのも面倒くさいらしく、ストーヴのまわりをふらふら廻っていた。
「今迄、どこを歩いてらしたの。」と芳枝さんが、きつい眼付をしてみせた。
「今迄? 何をねぼけてるんです。歩いてるのは今だけだ。第一、どこか、ぬれてますか。さあ、ぬれてるかぬれてないか、歩いてた証拠があるかないか、見てごらんなさい。だが、実は歩きたかった。霧のような雨が降っていて、いい晩ですよ。そいつを、むりに自動車にのっけるもんだから……。意趣晴らしだ、一杯のまして下さい。」
「だめだめ、もう何時だと思って?」
「何時だって……。一体、女にとっては、何よりもかによりも、時間が一番大切らしい。それが、癪にさわることの一つ。それから……。」
「それから?」
「とにかく、一本だけ。」
 そして片野さんは、両の踵で器用に靴をぬいで、膝頭で小座敷の方へ上っていった。表からはいってくると、小椅子をそろえた卓子が五つ並んでる土間、それに続いて四畳半の座敷、それだけの店なのである。
 芳枝さんは、向うにぼんやり立ってる佐代子に用を云いつけておいて、小皿の膳を運んできて、瓦斯ストーヴに火をつけた。がその方へは手もかざさず、じっと相手の顔に眼を注いだ。
「どうしたの?」
 片野さんは、へんに神妙に彼女の顔を見返した。
「もう一時よ。」
「すみません。」そして片野さんはにやりと笑った。
「ばかね。あれから、家に帰らなかったんでしょう。」
 片野さんはうなずいたが、こんどは眼付で笑っていた。
「ちょっと、気にかかることがあってね……。実は、あちこち、飲みあるいちゃったんだ。何だか、知ってる人にみんな逢いたくなったのさ。勿論、女だけなんだが。もうこれから、酒をのむこともあるまい、すっかり真面目になってしまうんだ。今晩がさいごだ。だから、晴れやかにぱっと、知ってる女にみんな逢ってしまおうと――分ってるだろう、ただ顔を知ってるだけだよ、変な関係なんか一人だってありゃあしない――そのみんなに、ぱっと逢って、さよならって、ぱっと帰ってしまいたかったんだ。こういう気持、僕は嬉しかった。本当に君を愛してるからなんだ。ところが、君も僕を愛してる、本当に愛してるね、だから、君も多分、知ってる男にみんな逢ってみたい、ぱっとだよ、ぱっと逢ってみたい、そんな気になって、あっちこっちに電話でもかけて、そこまではよいが、なんしろ、相手は男だし、君の方は女だし、どんなことになるか分ったもんじゃないから……

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