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秋の幻
あきのまぼろし
作品ID42481
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-01-16 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 或る田舎に母と子とが住んでいた。そして或る年の秋、次のようなことがあった。――
「もう本当に天気がよくなったのでしょう。」
「そうね。」
 母と子とは、或る朝そんな会話をした。そして二人共晴々した顔を挙げて、青く澄んだ大空を見上げた。大空を見上げる前彼等の視線は、広い野の上を掠め、野の向うに聳立っている山の頂を掠めた。そして今、視線が更にその上の青い大空のうちに吸い込まれると、彼等は何とはなしに微笑みを洩した。
 その年は、初秋の頃から殆んど毎日のように梅雨のような雨が降った。それは、空から落ちて来るのではなくて、地から舞い上る糠雨のようであった。往来には深い泥濘が出来、家の中はじめじめしていた。村の人達は、鶏小屋の掃除や牛馬の□に苦心した。それよりもなお一層、稲や蕎麦の実入りや大根や里芋の収穫に心痛めた。そして彼等は毎日眉を顰めて雨の空を見上げながら、ぶらぶら遊んでいた。
 けれどいつとなくその長雨が霽れると、小春のいい天気に返った。少しく南に廻った鈍い日脚が、野の上を一面に黄色く輝かした。そして大地の上は見渡す限り、活動と収穫との時期に返った。雨に痛んだものは何もなかった。稲の穂は実のりのいい黄色い重さに、田の上を一面に波打っていた。重く倒れかけた蕎麦畑の間からは、雲雀が空に舞い上った。大根や里芋も黒い土の中にむくむくと根を張っているらしかった。そして村の人々は皆田畑に出た。収穫の喜びが彼等の日に焼けた顔の上に在った。そして雨に封じられていた彼等の筋肉の力は、今や大地の上に試みられていた。
 そういう中から、またぽつりぽつりと巡礼の旅に出かける人達もあった。彼等の前には広い野があった。野の上には一面に紅葉した草木があり、祈らるるような清く澄んだ大気があった。朝には路傍の草葉に露が結び、夕には西の空が赤く焼けた。
 雨に封じられていた心が雨と共に霽れると、凡ての人の前には急に深い秋が現われていた。収穫の秋が、そして祈祷の秋が、また少数の人にとっては瞑想の秋が。何時の間にか深くなった秋を驚いて見つめた地上の人々は、四五日の好晴の後には、もう自ら深い秋のうちに浸っていた。そして各の途を歩いた。それは自分の所有を取収むる季節であった。自分の祈祷を祈り、自分の心を黙想する季節であった。空が高く澄み切って、紅葉した木の葉が静に散った。夜は蒼白い月の光りが在った。
 母と子とは、そういう自然とその中の人々とを、穏かな心で眺めた。母は日当りのいい縁側に出て針仕事をしていた。野の仕事に忙しい人達の労働の後の身体を纒う着物を仕立てるのが、彼女の僅かな仕事であった。彼は――子のことを以後彼と呼ぼう――その側に寝転んだり、又は机に向ったりして、書物を読んでいた。小作に入れてる土地から上って来る収入を学費にして、来る年からは都に出かけようかと思っていた。
「旅にでも出たいような…

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