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表現論随筆
ひょうげんろんずいひつ
作品ID42521
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-05-28 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私達六七人の男女が、或る夏、泳げるのも泳げないのもいっしょになって、遠浅の海で遊んでいた。
 一面に日の光が渦巻いていた。空は大きな目玉のようにきらきら光っており、海は柔かな頬辺のようににたにた笑っており、青い松林をのせた白い砂浜が、ゆるやかな曲線を描いて、その海と空と私達とを抱いていた。
 人間的な親しい放心のなかに、動物的な遊戯心が踊りはねる。泳げる者の手につかまって、泳げない者がばちゃばちゃやってたのが、いつのまにか遊びにかわって、両手にすくった水をぱっと、相手の頭から浴せてしまった。
「あら、ひとの眼に……。」
 頓狂な声を立てたのは若い女である。
 でも、眼には僅か二三滴の水に過ぎない。頭から顔全体へかけてざぶりと浴せられた、その何百分の一かに過ぎない。それでも彼女にとっては、その何百分の一だけが、最も直接の感じであったろう。
 これを客観的に云い現わすならば、彼女は頭から顔へかけて一杯水を浴せられた。それを彼女自身は主観的に、「あら、ひとの眼に……。」
 客観的表現と主観的表現とは、そういうところに截然と区別せらるる。文学上のむずかしい理論を俟つ必要はない。

 最も純粋無垢な客観的表現は、童話の世界にあるように思われる。ただ具体それ自身の面白さのために、具体的な認識がそこに行われる。
 大勢の子供が集って、蝸牛の這うのを見ていた。頭を長く差伸し、二本の角をふり立て、大きな殻を背負い、銀色の跡を残しながら、垣根の枯竹の上を這ってゆく。
「蝸牛が這ってるよ!」
 それだけが子供達の認識である。
 蝸牛は何のために這ってるのか。何を求めて、或は何を逃げて、這ってるのか。どこからどこへ這ってるのか。……そういう事柄は凡て、蝸牛が這ってる姿の面白さを害するばかりである。そういう事柄と結びつけられる時、子供達の享楽は薄らいでゆく。
 朽ちかかった竹、その上を這ってる蝸牛、それだけを拡大鏡的にぽっかり浮き出させるところに、童話の世界の真髄がある。其他のことは、物語を組立てる上の余儀ない些事に過ぎない。

 子供の眼は、具体にだけ止まる。それが大人の眼になると、具体以上のものにまで及んでゆく。
 講談本を読むと、剣客物などで、一流一派に秀でたその道の達人は、如何に腰の曲ったよぼよぼの老人でも、一度剣や木刀を手にする時には、腰は伸び足は大地に根を下し、人の肺腑を貫く気合の声が出る。大抵みなそうである。そして、これはまさにそうすべきである。
 然し、その老人が本当に一流の達人ならば、剣や木刀を手にしなくても、常住坐臥の姿に於て、特殊の感銘を人に与える筈である。それを単なる老人と見るのは、子供の眼に過ぎない。
 なぜなら、私の観るところでは、芸の妙諦は体得にある。云い換えれば、一芸一能に秀でた者は、その一芸一能を、おのずから自分の身につけて、それが一の風格とまでな…

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