えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
文学以前
ぶんがくいぜん |
|
作品ID | 42536 |
---|---|
著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社 1967(昭和42)年11月10日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2006-06-09 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
作品の活力は、中に盛られてる作者の生活的翹望から来る、ということが説かれる。また、「身を以て書く」、「血を以て書く」ということが、理想的に説かれる。そして、キリストに対して、羨望或は感嘆の意が述べられる。
これは、余りに文学的なる文学に対して、より少く文学的なる文学を要望することであり、更に云えば、文学を「文学以後」より、「文学以前」に引戻さんとする方向を指示するものである。
*
「文学の貧困」ということは、文学の中に於ける「文学的なるもの」の貧困の謂ではない。否却って、「文学的ならざるもの」の貧困の謂であろう。
ジャーナリズムに於て、或は一般読書界に於いて、文学の気息が細ってきた原因は、「文学的なるもの」の欠乏にあるのではなくて、「文学的ならざるもの」の欠乏にある。
文学作品から、或は中間物へ、或は実話物へ、或は論説へ転向してゆくことによって、読者の求めようとするのは、一体何であるか。これを一言で云えば、情緒や感動や思想――而も直截簡明なそれらである。
文学の素材のなかに、或は作者のなかに、情緒や感動や思想が涸渇してきたとは、敢て断言出来ないだろう。然しそれらが文学として表現される時には、勿論、文学的扮装を以て表現される。そしてこの文学的扮装は、一歩誤れば、その主体を生かすどころか、却って窒息させる恐れがある。
文学的扮装は、「文学的ならざるもの」――或は「文学以前のもの」を、生きた事実として具体的に表現する手段に外ならない。然るに、この扮装の重みの下に、表現せんとする主体を窒息させる場合には、それ自身の自殺以外の何物をも意味しない。地肌をぬりつぶす厚化粧が、やがて、化粧法の自殺を意味するのと、同様である。
「作家たるものは、芸術のために凡てを捧ぐべきである。作家にとっては、生活でさえも一の手段に過ぎない。」――こういう悲壮な言葉は、文学が一の意欲を持ち、生活的現実に対して批判的関連を持つ限りに於いてのみ――全くその限りに於いてのみ、意義を有する。そして、文学が製造工場の中にとじこめられ、その生産方法にのみ適用される時、この言葉は、文学そのものを没落させる作用をしかなさない。
*
貧困は、生産不足からばかりでなく、生産過剰からも来ることは、近代の常識である。
文学は一の加工品である。素材に、文学的加工を加えて、文学が出来上る。たとい文学が、生活の現われであり、生活情意の流露であり、或は生活から咲き出た花であろうとも、現わし流露させ花咲かせるところに、加工的な――生産的な――労力が存在する。
随って、文学を分析して、かりに、素材からくるものを「文学的ならざるもの」とし、生産的労力からくるものを「文学的なるもの」とすることが出来よう。そしてこの「文学的なるもの」の過剰は、即ち文学の過剰であって、文学の過剰は、やがて、文…