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作品ID | 42555 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社 1967(昭和42)年11月10日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2006-06-21 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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一
美しい木立、柔かな草原、自然の豊かな繁茂の中に、坦々たる街道が真直に続き、日は麗わしく照っている。二人の恋人が、或は二人の仲間が、肩を並べ、楽しい足取りで、その街道を進んでゆく。古い生活を捨てて、新らしい生活の方へ。彼等は襤褸をまとい、小さな包みを提げ、ポケットに一片のパンを持ってるのみであるが、前途には洋々たる希望がある……。
それは、人の心を慰め微笑ませる情景である。――クレールの「自由を吾等に」、ルノアールの「どん底」、チャップリンの「モダン・タイムス」、其他の映画が最後に取上げてる情景である。
それが人の心を慰め微笑ませる所以は、たとい彼等が其処で一片のパンを食いつくそうとも、前途には、多くのパンがあり、多くの仕事があり、要するに、自由な新たな生活があるからである。現実にあるのではないが、あるだろうという予想或は予約が、現実の姿を取っているからである。
豊かな自然のなかでは、予想或は予約が如何に容易く現実の姿を取ることぞ。豊かな自然のなかに飢えてる動物を想像することは、甚しく困難である。
現実に、襤褸をまとい、小さな包みを提げ、一片のパンをかじりながら、田舎道を辿るのは、敗残者の道行であり敗残者の逃亡である。新生活の建設は、単なる予想にすぎず、地平線の彼方の夢にすぎない。ただその夢は現実の相よりも大きく力強く、現実の姿を取って全体をおし包む。然し実際には、新生活の建築は其後のことである。
ドストエフスキーの「罪と罰」の結末は惨めである。シベリアへ流される殺人者と、その後を追う売笑婦。普通の人は眉をひそめるであろう。そこへ黎明の光をもたらすものは全く、其後の新たな物語にすぎない。「死の家の記録」に見られるような深い人間性の展開があるだろう、という予約にすぎない。モルナールは「ドナウの春は浅く」のなかで、現実生活に敗れた少女をして、ドナウの濁流の中に身を投じさせた。そしてその後で、少女を乗せていた空舟のまわりに、濁流を乗り切る野菜船の男女の歌声を、勇ましく高らかに響き渡らせた。別個のものを、或は別個の思想を、持って来たのである。
現代の多くのインテリの生活には、旧生活からの逃亡と新生活への首途とが綯い合されている。あらゆる信念の崩壊を一度くぐりぬけてきた人々にとっては、遁走が発足であり、発足が遁走である。彼等が感ずる「旅へのいざない」は、二重の意義を持つ。その旅は、あらゆる遺棄と獲得とを必然条件とする冒険の旅である。而も遺棄は確実であり、獲得は不明である。地平線の彼方は全然見通しがつかない。彼方に、「序次と美と栄耀と静寂と快楽と」が果してあるかどうか、その信念は勿論、憧憬さえも失われている。明かなのは現在が安住の地でないこと、そしてただ発足と建設。何処へ、そして何を、それは次の問題だ。先ず発足そして建設。目標は、内容は、つ…