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中支生活者
ちゅうしせいかつしゃ
作品ID42570
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-06-30 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 杭州へ行った人は大抵、同地の芝原平三郎氏の存在に気付くであろう。
 杭州は蒋政権軍資の源泉の一つでもあったし、また抗日意識の最も旺盛な土地の一つでもあったし、最近まで軍事上の前線的地域に位置してもいた。然るに今日、この地の治安は美事に確保されている。それには種々の原因もあろうが、芝原氏の力も大に与っているように思われる。
 芝原氏は或る要職についてる人であり、其背後関係も見逃してはならないが、然し何よりも、杭州の×××の顧問をし、また××の顧問をもかね、×××の元締であり、且つ街の親分である。
 杭州に新世界という謂わば綜合娯楽場があり、各種の娯楽機関が備わっている。この中庭の卓子の一つに腰を下し、芝原氏と共に茶をすすっていると、通りがかりの市民たちが芝原氏に挨拶をしてゆく。それらの人々の中には、町の顔役もあり、与太者もあり、職業婦人もあり、新世界に出入りするあらゆる種類の人がある。
 芝原氏が声をかけると、卓子のまわりにずらりと数名の人々が居並ぶ。中には何か用件を耳語する者もいる。さて、立って帰りかける時にも、芝原氏は一銭の茶代さえ置かないし、同行者にもそれを禁ずる。平素何等かの機会に充分の付け届けがしてあるのであろう。
 芝原氏に街の娼家へ案内を頼むと、娼家の主婦は一同を控室へ慇懃に導き、茶をすすめ、手あきの美女を侍らしてくれる。但し控室より奥へは踏みこんではいけない、茶代を置いてはいけないことも前と同様である。
 たまたま、聚豊園などの一流料理店で結婚式が行われる場合、その有様を見たいと思う者は、芝原氏に頼むがよい。招待客しか入れないその広間に、芝原氏は依頼者を案内してくれる。モーニング姿の新郎と白紗を頭からまとった新婦とが相並んでるのへ、四方からテープや切紙を投げかける賑かな室の中で、闖入者たる芝原氏へにこやかな目礼をなす人が多数である。
 すべてそれらのことが、何等気持の上の摩擦もなしに自然に行われる。そして芝原氏自身は、同地に妻女を携行せず、一人暮しではあるが、酒を嗜まず、遊里に入らず、粗末な支那服をまとい、巧みな地方語をあやつり、微髯の丸顔に笑みを浮べ、悠然と歩いている。
 芝原氏の斯かる存在は、所謂支那浪人などという概念から遠いものである。また杭州市民間の氏の勢力は、氏の背後関係を割引して考えても、宣撫工作などで得らるるのとは異ったものである。殊に、氏が懇意にしている人々のうちに、幾名かのインテリ女性らしいものを見受けるのは、注目すべきであり、恐らくはインテリ男性も相当にいるだろう。
 芝原氏が現在如何なる仕事に力を注いでるかは、茲に省くとして、現在のような地位を杭州市民間に獲得するには、つまり、体当りの骨法でいったことが、氏の言葉によって推察される。体当りの骨法でゆくというのは、茲では、身を以て民衆の中に飛びこんで共存的生活をなすことを意…

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