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山の別荘の少年
やまのべっそうのしょうねん
作品ID42646
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄童話集」 海鳥社
1990(平成2)年11月27日
初出「文芸」1936(昭和11)年3月
入力者kompass
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2006-07-30 / 2014-09-18
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は一年間、ある山奥の別荘でくらしたことがあります。なかば洋館づくりの立派な別荘でした。番人をしている五十歳ばかりの夫婦者と、その甥にあたる正夫という少年がいるきりでした。私は正夫とすぐに親しくなって、いろいろなことを語りあい、いろいろなことをして遊びました。たくさん思い出があります。そのいくつかをお話しましょう。

      一 さくら

 別荘の裏手の山つづきのところに、たくさんの桜の木がありました。春になるといっぱい花がさいて、家ぜんたいが、花にだかれたようになりました。
 山奥の桜の花は、じつにきれいで、都会の公園の花のように埃をかぶっていませんし、平野の花のように色あせていません。花びらがみずみずしくてくっきりと白く、ほんのりと赤みがういて見えます。それが無数にさきみだれて、その間から、かわいい小さな葉が、緑色に笑いだしています。
 朝日がさすと、白い綿のようですし、夕日がさすと、うす赤い綿のようです。月の光がさすと、夢のなかの雲のように見えます。
 ある晩、私は窓をあけて、月の光がいっぱいさしてるなかで、桜の花をながめました。それから外に出ていって、花の下を歩きました。
 幹の影と自分の影とが地面にくっきりうつっていましたが、花は月の光をとおして、ぼーとうす明るく、まったく白雲のようでした。
 その白雲の下に、向こうに、正夫がぼんやり立っていました。
 私はほほえんで近づきました。
「桜の花は、月の光で見るのがいちばんきれいだねえ」
 正夫は私の顔を見たきり、いつまでもだまっていました。
「どうしたの」と私はたずねました。
「だって、僕心配だもの」
「何が?」
「この木ですよ」
 正夫が指さしたのを見ると、それはひときわ大きな桜の木で、まるく枝をひろげて、しなうほどいっぱい花がさいていました。日傘の上に白い雲と月の光がつみかさなったようで、じつにみごとでした。
 その木を見てるうちに、私にも、正夫の心配がはっきりわかってきました。
 昼間のことでしたが、遠いところから、ここの桜の花のことをきいて、えらい人が見物に来たのです。そして花を見てしきりに感心していましたが、ただ一つおしいことがある、といいだしました。それは、桜の花に匂いがないということでした。
「これほどきれいに咲いてるのだから、これに、梅の花のようなよい匂いがあったら、さぞよいだろう」
 その言葉を、正夫の小父さんがききとがめました。そして、どうかして匂いをつける仕方はあるまいかと、相談しました。するとその人は、植物のことなら何一つ知らないことはないというほどえらい学者で、桜の花に梅の花のような匂いをつけてあげようと、引き受けたのでした。ある薬を桜の幹に注射するんだそうです。けれど、その薬はたいへん貴いもので、たくさんはないから、いちばん立派な大きい桜の木を一本えらびました。
「一…

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