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![]() けしょうのもの |
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作品ID | 42664 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第五巻(小説Ⅴ・戯曲)」 未来社 1966(昭和41)年11月15日 |
初出 | 「世界」1950(昭和25)年12月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2007-02-10 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 27 ページ(500字/頁で計算) |
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小泉美枝子は、容姿うるわしく、挙措しとやかで、そして才気もあり、多くの人から好感を持たれた。海軍大佐だった良人を戦争で失い、其後、再婚の話も幾つかあったが、それには耳をかさず、未亡人生活を立て通していた。書生が一人、奥働きの女中が一人、下働きの女中が一人、それだけの家庭で、なお遠縁に当る中学生を一人預っている。近所の評判もよかった。
ところが、近頃、知人たちの間に、ひそひそと交わされる噂が拡まっていった。美枝子に愛人があるらしいというのである。
「まあ、あのひとに。」
「そうなんですよ。」
「ほんとうかしら。」
「どうやら、ほんとうらしいんですの。でも、相手の男のひとが誰だか、さっぱり分らないそうですから、それがすこし、おかしいんですって。」
美枝子の交際範囲の男たちを物色してみても、一向に見当はつかなかったし、噂の出所も不明だった。そうなってくると、噂そのものの真偽も疑われた。
そのうちに、噂は別な形を取っていった。美枝子が姙娠してるらしいというのである。
「まあ、だんだん具体的になりますのね。」
「そうですよ。けれど、相手の男のひとが誰だか、やっぱり分らないそうですの。」
「ほほほ、聖母マリアみたい……。もっとも、あのひとは処女ではない筈ですけれど。」
「いまに、キリストさまがお産れなすったら、たいへんなことになりましょうね。」
「さあ、どうでしょうか。産れる前に、処置しておしまいなさるかも知れませんし。」
「そのようなこと、簡単に出来るものでしょうかしら。」
「いずれは、入院とか旅行とか、そんなことでございましょうね。」
然し、美枝子の日常は聊かの変りもなかった。入院も旅行もなく、面やつれさえも見えず、芝居や映画やお茶の集りなど、平素の通りの社交ぶりだった。知人たちの好奇な眼を腹部に受けても、全く気にかけていないようだった。親しい友だちの間でも、噂がただ愛人のことに止まってるうちはまだしも、姙娠ということになってくると、さすがに、未亡人たる彼女に面と向って言い出すのは憚られた。但し愛人から姙娠へと、噂の移り方が時間的に早すぎはしたけれど、そのようなことに留意するのは、単なる交際上では無理だったろうし、第一、両者が同時に起ることだってあり得るのである。
美枝子の腹部は少しもふくらんでこなかった。ただ、秋気が深まるにつれて、彼女はいくらか肥ってきたようだった。そして、煙草をもてあそぶことが多くなった。それも、もともと煙草好きというのではなかったし、時折、口先でふかすだけである。
「わたくし、なんだか肥ってきたようで、いやですわ。」と彼女は言った。
「却って、結構ではございませんの。どちらかと言えば、痩せていらっしゃる方ですもの。」
「それはそうですけれど、もしも、ぶくぶく肥ってきたら……と思いますと、いやになりますの。この年では、まだ、可哀そう…