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広場のベンチ
ひろばのベンチ |
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作品ID | 42670 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第五巻(小説Ⅴ・戯曲)」 未来社 1966(昭和41)年11月15日 |
初出 | 「文芸」1951(昭和26)年9月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2007-02-21 / 2015-07-16 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
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公園と言うには余りに狭く、街路に面した一種の広場で、そこの、篠懸の木の根本に、ベンチが一つ置かれていた。重い曇り空から、細雨が粗らに落ちていて、木斛の葉も柳の葉も、夾竹桃の茂みも、しっとり濡れていたが、篠懸の葉下のベンチはまだ乾いていた。
そのベンチに、野呂十内が独り腰掛けていた。手提鞄を膝に置いて両手で抱え、帽子の縁を深く垂らし、眼を地面に落して、我を忘れたように考え込んでるのである。
雨を避けてその木陰に逃げこんだのでは、勿論なかった。街路を通る人々のうちにも、傘をさしてる者は極めて少なかった。濃霧とも見做せるほどの細雨である。ただ、空の曇りかたが如何にも重苦しかった。
十内は溜息をついた。
先刻、街路の人通りからはぐれるように、広場へふみこんで、ベンチに腰を下す時、殆んど無意識にあたりを見廻した、その動作の感覚が、まだ残っていた。
あの顔、青服の少女の顔が、また見えてくるかも知れなかった。
十内が寄寓してる家から、電車通りへ出る道筋の一つに、神社の境内を通過してゆくのがあった。少し遠廻りではあるが、静かだった。裏手からはいって、立ち並んでる大木と社殿との間を通ると、神社の正面に出る。石の鳥居がある。そこから一段低くなってる広地は、縁日などにいろんな催し物が行われる場所だが、ふだんは、木影深くひっそりとしている。その外れに、また石の鳥居があって、そこから急な石段となる。二十段ばかり降りると、ちょっと平地となり、下にまた二十段ばかり続く。
上部の石段を降りて、平地で息をつき、それから下部の石段を降りかかった時、十内は息をのんだ。下方の空間に、ぽっかりと、あの少女の顔が浮き出していたのである。
もっとも、それが最初ではなかったようだ。夢ともうつつともなく、前にも一度見たことがある。夜明け頃、まだ眠ったまま、なにか考えごとをしている気持ちだったが、心の眼には、仄白い丸いものが映っていた。それが静止してるとも廻転してるともつかず、ただ明暗の差だけがちらちらしているうちに、額から、眼、鼻、口と、次第に形をととのえて、少女の顔となった。はっと、眼をさますと、室内にまで漂い込んでる薄明るみに、蚊帳が白々と垂れていた。
石段の下方の空間に現われたのは、もっとはっきりした顔だった。
長い髪の毛は垂らしているらしく、前髪だけをお河童風に短く切り揃えて、白い額の上部に影を置いている。高い広い額だ。鼻筋がすっきりと清い。眼と口は判然としない。顔全体が静止しながらゆるく廻転してる故であろうか。それとも幻覚の故であろうか。だが、その顔だけで、首から上のぼやけた顔だけで、あ、あの少女だ、と十内には分った。
忘れていたわけではない。
強いて記憶の外に放り出していたのである。戦闘、敗戦、俘虜、内地帰還、離散した家族、物資の闇取引など、生活環境の激変は、過去の一切…