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碑文
ひぶん
作品ID42713
副題――近代伝説――
――きんだいでんせつ――
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)」 未来社
1965(昭和40)年6月25日
初出「文芸春秋」1940(昭和15)年12月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-11-23 / 2014-09-21
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ある河のほとりに、崔という豪家がありました。古い大きな家ですが、当主の崔之庚が他から買い取って住んでいるのでした。
 崔之庚は六十歳ばかりの矍鑠たる老人で、一代で富をなしたのだといわれています。大地主で、農産物の売買などもしていますが、大体閑散な生活を送っていて、時々旅に出ることがありました。他の土地に第二第三の夫人たちがいるとの噂もありました。また、済南の紅卍字教の母院と青島の后天宮によくお詣りをするとの噂もありました。
 崔之庚が自慢にしているものが二つありました。
 一つは、高さ二尺ばかりの円い壺で、年代のほども分らない古ぼけたものでした。ただ古いというだけで、美術品としての価値はありませんが、崔之庚はそれを飾り床の上に据えて、大切にしていました。――昔彼が青島の一漁夫にすぎなかった頃、沖で魚網を投ずると、魚は一尾もはいらず、重い壺が一つかかってきた。天から授ったその壺の中には、金銀が一杯はいっていたという。そういう因縁が、親密な者には彼自身の口から語られる、その壺だったのであります。
 もう一つは、夫人の崔範でありました。三日月型のやさしい眉、澄みきった瞳を宙に浮かした切れの長い眼、細い鼻、小さな口、頬の皮膚が薄く透いて蒼ざめていました。背丈は五尺に足りない細そりした身体でした。崔之庚は家庭の宴席で酒の興に乗ると、この夫人を椅子に坐らしたまま軽々と持ち上げて、客たちの間を運び廻り、最後に奥の室へ連れて行くのでした。夫人はにこにこ笑っていました。彼女は三十五ほどの年配で、崔之庚とは年齢の差が大きすぎました。彼女がまだ極めて年若な頃、崔之庚は彼女を娶る時、彼女の家から老酒の一甕を貰っただけで、彼女に対して、黄絹七反、柴絹七反、毛皮三枚、五個五色の宝石、それに若干の黄金を贈物にしたということであります。「それが私の全財産の半分でありましたよ。」と崔之庚は酔余の上機嫌でいったことがありました。
 崔範は身体が弱く、外出することもあまりなく、いつも香りの高い煎薬をのんでいました。僅かな感動にも頬から血の気が去りました。
 初夏の暑い或る日、崔之庚は早くから用達しに出かけていて、崔範と娘の崔冷紅とが午の食卓に向っていました。崔範は朝から気分が悪く、食物にもちょっと箸をつけたきりで、食卓に片肱をつき、掌に頬をもたせて、ぼんやり物思いに沈んでいました。
 側には徐和がついていました。四十歳ばかりの逞ましい男で、崔家の一切のことを取締り、多くの男女の召使を指図し、来客のある盛宴には自ら料理の腕も振うという、いわば執事であり召使頭であり料理人でありました。若い頃船員だったことがあり、各地の事情にも通じ、いろいろな知識を持っていましたが、どういうわけか、崔家に仕えて、未だ妻も迎えずに暮していました。頑丈な体躯とひどく慇懃鄭重な物腰とが、不思議にしっくりと調和してる男であ…

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