えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
落雷のあと
らくらいのあと |
|
作品ID | 42731 |
---|---|
副題 | ――近代説話―― ――きんだいせつわ―― |
著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)」 未来社 1965(昭和40)年6月25日 |
初出 | 「文芸春秋」1946(昭和21)年11月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2008-02-19 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
雷が近くに落ちたからといって、人の心は俄に変るものではありますまい。けれど、なにか心機一転のきっかけとなることはありましょう。そういうことが、立川一郎に起りました。
暑い日、というよりは寧ろ、乾燥した日でした。午後、流れ雲が空のあちこちに浮んでいたのが夕方になって、消え去ったり寄り集まったりしているうちに、更にその上方高く、入道雲が出てきまして、両方が重り合い乱れ合って、急に暗くなってゆきました。そしてそのまま夜となりました。少しの風もなく、大気は重く淀んでいました。遠くに、稲光りと雷鳴とがありました。それから、冷やかな風が来て、間もなく止み、また風が来ました。大粒の雨がまばらに降りだしました。だが、雨はひどくならず、雷鳴だけが激しくなってゆきました。そして瞬間、万物が息をひそめた気配のなかに、天と地が激突したような光焔と音響とが起り、あとはしんしんと、闇黒の底に沈んだ感じでした。
立川の家からすぐ近くの、矢野さんの庭の大きな欅に、雷が落ちたのでした。
中空に聳え立っていた欅の大木は、伸びきった幹の上部でまっ二つに裂かれて、片方の数本の枝が地上に叩き落され、そこから、樹皮の亀裂が一直線に幹を走り下っていました。その姿を、翌朝、青空のもと、晴れやかな陽光のなかに、立川一郎は仰ぎ見ました。
彼は瞑想に耽りながら、焼け跡を逍遥し、もはや人込みが少くなった頃、電車に乗り、正午近くなって会社へ出ました。そしてそのまま自席に就き、ぼんやり考えこんでいますと、専務の水町周造から呼びつけられました。
「君は、この会社の規律を、忘れたのではあるまいね。」
一語一語に力をこめて、水町はじっと立川を眺めました。その視線が、以前は金槌のようだったのに今では木槌のようだと、立川はへんなことを感じました。
会社の規律というのは、立川も鵜呑みにしていました。遅刻したり、外出したり、早退したりする場合、つまり勤務時間に在社しない場合、その理由を一々専務に報告して了解を得なければならない、そういうことでした。戦時中に厳守されてきたその規律は、終戦後、会社の事務が殆んど無くなった後まで、やはり残存していました。
「何を考えてるんだ。」
水町は相手の注意を促す時の癖で、卓上をこつこつと叩きました。
立川は眼を挙げました。そしてうっかり、社長矢野さんの家の欅に雷が落ちたことを言いだそうとして、唾をのみこみましたが、思い返して、また眼を伏せました。
「遅刻の理由を、はっきり説明したまえ。」と水町は太い声を出しました。
立川は没表情な顔で言いました。
「あとで始末書を書いて差出すことにします。どうせ仕事はありませんから……。」
水町は太い眉をぴくりと動かしましたが、何とも言いませんでした。その隙に、立川はお辞儀をしてその室から出ました。
彼は自席に戻って、紙と筆墨を用意しました…