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水甕
みずがめ
作品ID42732
副題――近代説話――
――きんだいせつわ――
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)」 未来社
1965(昭和40)年6月25日
初出「群像」1947(昭和22)年1月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-02-19 / 2014-09-21
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 仁木三十郎が間借りしていた家は、空襲中に焼け残った一群の住宅地の出外れにありました。それは小さな平家建てでしたが、庭がわりに広く、梅や桜や楓や檜葉などが雑然と植え込まれており、その庭続きにすぐ、焼け野原が展開していました。焼け野原はもう、処々に雑草の茂みを作りながら、小さく区切られた耕作地となり、麦や野菜類が生長していました。そして畑地と庭との間には、低い四つ目垣が拵えてあるきりでした。
 その庭の片隅に、ばかに大きな水甕が一つ伏さっていました。東京では殆んど見かけられない大きなもので、何のために其処へ据えられたのか分りませんでした。借家主の平井夫婦は、戦争中、先住者がいち早く地方へ逃げ出したあとに、移転してきたのですが、その時から水甕はそこにあったのだそうです。恐らくずっと以前から、昔から、そこにあったのでしょう。その水甕は、空襲前から、防火用水を一杯たたえていましたが、終戦後、いつのまにか、逆さに伏せられてしまいました。誰がそんなことをしたのか分らず、そのまま放置されていました。平井夫婦もそれを殆んど眼にとめていませんでした。
 この家の一室に住むことになった仁木三十郎は、戦争中、大陸の田舎で、似寄った甕をよく見かけたことを思い出しまして、或る時、それを横に起してみました。中はきれいで、泥も塵もついていず、地面がただそこだけ湿って黒ずんでるだけで、何の奇異もありませんでした。
 ところが、仁木としては、水甕の中に何の奇異もないことが、別に奇異を期待していたわけでもないのに、ちょっと不満でした。そして水甕はそのまま打ち捨てましたが、不満だけは残りました。なにか世の平凡さに退屈しきっていたとも言えましょうか。
 仁木の生活はもう落着いていました。終戦の翌年のはじめ東京に帰還してきてから、数ヶ月間、ぼんやり宙に浮いていたような心も、もう胸の奥にしっかと腰を据えました。田舎の温泉で暫く保養した身体は、不自由な食糧事情のなかにあっても、逞ましい健康を持ち続けました。軽いマラリヤの発作も、もう殆んど起らなくなりました。通俗な電気器具を拵えてる小さな町工場の会社では、彼を意外なほど優遇してくれました。兄一家の狭苦しい商店の片隅から、平井家の八畳の一室に移り住むと、その室がはじめは広すぎて佗びしく思われるほどでした。平井は配電会社に勤めてる老人で、夫婦とも温厚な好人物でした。息子の戦死が最近になって初めて分明し、一室を仁木に貸すことにしたのです。夫婦の外に、堀内富子という中年の女がいまして、炊事雑用を一切やり、仁木の日常の用事も手伝ってくれました。それから猫が一匹いました。
 ありふれた牡の黒猫で、四足が白く、首の下にも白いところがありました。その白毛の配置がちょっと奇妙で、四足が拵え物のように見えることもあれば、首の下の白いのが熊の月の輪のように見えることもありまし…

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