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紫の壜
むらさきのびん |
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作品ID | 42741 |
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著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)」 未来社 1965(昭和40)年6月25日 |
初出 | 「明日」1948(昭和23)年1月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2008-02-29 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 24 ページ(500字/頁で計算) |
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検察当局は私を、殺人罪もしくは自殺幇助罪に問おうとしている。私は自白を強いられている。だが、身に覚えないことを告白するのは、嘘をつくことだ。この期に及んで嘘をつきたくはない。軍隊生活では平然と嘘をつくことを教えられてきた。それを清算したい意味もあるのだ。私は真実だけを語りたい。
それにしても、当事者の私にとって明瞭な真実は、如何に僅かな些細なものであることか。それが私の悲しい不幸だ。しかもその僅少な真実の中に、なんとも恥しくて言いにくい事柄が含まっている。その事柄を中心に局面が転回したとも見える。どうしてあのようなばかなことを私はしたのだろう。
私はすっかり打ち拉がれていた。そして悲愴なものが胸に溢れていた。
「北海道へはいつ発つの。知らしてね。上野駅まで送っていくわ。」
皮肉かとも思える調子で弓子は言った。――私が待ち望んでた言葉とはまるで反対だ。行っちゃいや、ねえ、行っちゃいやよ、そんな言葉を私は空想していたのだ。
だが、その後で、これはまたなんとしたことだろう、弓子は私の肩を抱き寄せ、そして私に長い接吻を許した。いや、許したのじゃない、彼女の方から私にしたのだ。私がこれまで知らなかったような接吻の仕方である。唇と舌とを絶えずゆるやかに波動さして……。彼女の過去がそこにもあったのだろうか。二人とも酔っていた。吐く息も唇もアルコールくさかった。アルコールは体臭を消して、ただ純粋な触感だけを残す。彼女の唇と舌との巧妙な波動にあやつられて、私は苦悩に似た忘我の中に沈みこみ溺れこみ、そして[#挿絵]きながら、彼女の全身に縋りついていった。
その時、彼女はするりと私の両腕から脱け出した。――私はなぜ彼女をしっかと抱き緊めていなかったのだろう。壊れやすい硝子器にでも取りすがるような姿態だったに違いないのだ。
「センチになっちゃだめよ。」
熱い息で彼女は囁いた。肉付の薄い頬に、凍りついたような微笑が刻まれていた。そしてそれらとは全く別個に、美しい水滴が、彼女の睫毛にたまってほろほろと落ちた。それを私は確かに見た。幻覚ではなかったのだ。
私は黙って、コップにウイスキーをつぎ、水をわった。彼女もコップを差しだしかけたが、その手をとめた。
「いいものがあるわ。忘れていた。」
戸棚をことことかきまわして、その奥からチーズの缶を取り出した。そして店の方へ彼女は立って行った。
そのちょっとした隙間に、私は覚悟をきめた。いや寧ろ、覚悟とも言える決定的なものが、自然に生れてきたのだ。――戸棚のわきの文机に、インクスタンド、硯箱、人形、切子硝子の花瓶、手箱の類など、ごたごた並んでいる、その片端に、小さな紫色の壜が置かれていた。先刻、話のついでに、彼女が私に見せた毒薬の壜だ。彼女はそれを無雑作に机に置いたまま、忘れてしまったのであろうか。然し私の意識の底には、それが引…